第六十話 七月七日(土)夕方
その日の夕方である。僕はひとり、自室で机にむかっていた。
授業の予復習が、ちょうどおわったところだった。さて、つぎは、帰りしなに委員長に借りた本でも読もうか。そんなことを考えた矢先のことだった。
ふいに、ベッドのうえに投げだしてあった携帯が鳴った。幸からの電話だった。
「やあ。どうしたの?」
「べつに、用事というほどのこともないんだけどさ」
最初の話題は、徹子ちゃんについてのことだった。予定はかわらず、幸はあすの集まりには来られないらしい。一家で、田舎のおばあちゃんに会いにいくのだという。
そのあとは、学校でのちょっとしたできごとから、買ったCD、読んだ本など、軽い雑談がつづいた。
こうして、幸とたわいない話をする時間が、僕は好きだった。彼女の声を聞いていると、ふしぎに安心するのである。
「えっと……」
ところが、なぜか、きゅうに会話がとぎれた。幸が、みょうに口ごもっている。はて、どうしたのだろう?
「幸?」
「じつは、さ。公平が、女とつきあってるらしいって話を聞いたんだけど」
意を決したという感じで、幸が口にしたのは、思いもよらない言葉だった。
「は? ……だれがそんなことを?」
「だれっつうか、ま、噂話なんだけどね。で、実際のところ、どうなん?」
なんだそりゃ。意味がわからないぞ。
「いや、つきあってる女なんていないよ。どこからそんな噂が?」
聞けば、僕が女といちゃつきながら歩いていたのを、目撃したひとがいるらしい。なんでも、ものすごくベタベタとくっついていて、見ているほうが恥ずかしくなるほどの熱々バカップルぶりだったのだとか。
「絶対に人違いだよ、それ。そもそも、僕がひとまえでそんなふうに女といちゃいちゃするはずないし」
「アタシも、そうは思ったんだけど……」
奥歯にものがはさまったような、おかしな言いかただった。なにか、幸の態度が変だと思った。
まさか、彼女は本気で僕を疑っているのだろうか?
「うーん、なんつうか……。まえさ、あんなことがあったけど、もしこっちに遠慮してるとかだったら、気にしないでいいよ」
一瞬、幸がなにをいっているのか、理解できなかった。
「あんなこと、とは?」
「だから、んと……。告白、してくれたっしょ? そのあとに、ほかの女とつきあったら、アタシに悪いとか、公平、そんなふうに考えてるんじゃない? それで」
あとの言葉は、よく耳にはいらなかった。
ほとんど反射的に出かけた怒声を、僕は必死で抑えこんだ。受話器のむこうにいる幸に悟られないよう気をつけて、呼吸をととのえることに全力をついやした。
顔が熱い。それでいて、手足は冷たかった。
「とにかく、もしつきあってる女がいるんだったら、ちゃんと話してほしいんだ。あんたは、アタシにとっちゃだいじな友だちなんだしさ。応援だって」
「わかった。いつかそういう女ができたら、話すことにするよ」
やっとそれだけをいって、僕は電話を切った。
すぐに携帯の電源をおとし、そのままベッドに横たわった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でもよくわからなかった。
なぜ、幸は簡単に、噂話などを信じてしまったのだろう。
ちょっと、だれかになにか吹きこまれたぐらいで、鵜呑みにしてしまうほど、彼女は僕が、たやすくほかの女を好きになれると思っていたのだろうか。
こちらの気持ちがそのぐらいのものだと、幸はそう思っていたのだろうか。
幼いころから、ずっと好きだったひと。ずっと守りつづけたいと願っていたひと。告白して、ふられはしたが、その気持ちには変わりはない。
友だちとして、家族に近い幼なじみとして、幸がくれる好意が辛かった。それでも、むこうの許してくれる距離にいるつもりだった。だれよりも、彼女のことが好きで、できるだけ近くにいたいと思っていたからだ。
すでにつきあっている女がいるなら、わたしに気をつかうななどと、ここでそんな言葉があるものか。
僕がどれほど幸のことが好きなのか、むこうはわかってくれているとばかり思っていた。たとえつきあってもらえなくても、こちらがどんな気持ちで告白したのか、彼女は理解してくれているのだと信じていた。
それは、僕の勘違いだったのだろうか。こちらの気持ちは、まったく届いていなかったのだろうか。
情けなかった。
自分自身がである。こんなに情けないことが、ほかにあるだろうか。だれよりも好きな相手に、あろうことかその気持ちを信じてもらえていなかったなんて。
「こーちゃん、そろそろごはんよ」
あれこれ思い悩んでいるうちに、母さんが階下から声をかけてきた。もう夕食の時間である。灯りをつけていないので、部屋はすっかり暗くなっていた。
「いらない。食欲がないんだ」
返事をして、僕は目をとじた。
結局、そのあとはなにも手につかなかった。眠るまでのあいだ、僕はずっと部屋でぼんやりとしていた。