第六話 四月九日(月)早朝 2
ひとまず、階下におりることにした。
わが廣井家では、二階に僕の私室と納戸、一階には親の寝室と茶の間、台所、風呂、トイレなどがある。
僕の両親、すなわち廣井隆一・清美夫妻が結婚するずっとまえに、いまは亡き祖父の一平がたてた家だそうだが、それほどおおきなものではないし、庭もない。住み慣れているというところだけがとりえの、ごく一般的な家屋である。
さて、なにはともあれ朝の身だしなみだ。僕はトイレわきの洗面台にたつと、顔を洗い、歯を磨いた。それから、石鹸を泡だてて髭を剃った。
鏡を見ながら、寝癖もなおしておいた。すこし、髪がのびすぎている気がする。そろそろ、床屋にいったほうがいいのかもしれない。
準備がととのったところで、廊下をわたって茶の間にむかった。
「おはよう、父さん、母さん」
見ると、父さんは新聞を読んでいるところだったらしく、僕を一瞥すると、ひとこと『おはよう』とだけいってから、ふたたび手元に目をおとした。母さんはといえば、ちょうど食器をかかえて台所にはいるところだったが、やはり声だけで挨拶をかえしてきた。
どうやら、ふたりとも、すでに朝食はすませているようである。父さんなど、すでにスーツを着こんでいた。
つかのま、部屋の様子をぼんやりながめていると、母さんが台所からもどってきて、話しかけてきた。
「こーちゃん、今朝はずいぶん早起きなんだ」
「まあね。母さんたちもはやいけど、なにかあるの?」
すると、母さんは濡れ布巾でテーブルをふきながら、顔だけこちらにむけて、簡単に状況の説明をしてくれた。
それによると、今日はふたりとも、朝から仕事があるとのことだった。父さんは会社で会議、母さんも、パートにでているスーパーが月曜セール開催だとかで、いつもよりはやい時間帯に出勤するのだそうだ。
ようは、把握していなかっただけで、最初から家族全員が早出の予定だったわけである。
「だったら、朝ごはんもいっしょに食べればよかったね、こーちゃん。でも、始業式は午後からじゃなかった?」
「いや、式のまえにアレがあるんだ」
こちらの返事に、母さんは一瞬、怪訝そうな表情をうかべた。しかし、すぐに得心いったような顔をしてうなずいた。毎年のことなので『アレ』だけで通じてくれたようだ。
「なぁるほど、幸ちゃんのアレね。でも、ほんとに偉いわよねえ。いつも前向きで。母さん、ちょっと尊敬しちゃうわあ。あんな子が、こーちゃんのお嫁さんになってくれたら、安心なんだけどなあ」
からかうような口調だった。幸について、母さんがこういう言いかたをするのは、まいどのことで慣れているが、今回はさすがにどきりとした。
とにかく、告白してふられたことだけは、悟られないようにしなければならない。
「はいはい。そうなったらいいね」
いかにも、なにげない感じで、相槌をうってみた。父さんは、聞いているのかいないのか、新聞から顔をまったくあげようとしない。
「……あ、そうそう。朝ご飯のおかずは冷蔵庫にはいってるから、あたためて食べてね」
「うん、わかった」
やれやれ、どうにかごまかせたようだな。まったく、朝から心臓に悪いよ。そんなふうに、心のなかで愚痴をこぼしつつ、僕は台所へとむかった。
なんとなく、幸の顔を思いうかべていた。
幼なじみとして、僕と幸が、長年にわたり良好な関係を維持できた理由のひとつに、親同士が仲よくなったからということが挙げられる。
たとえば、母さんは、幸の母親である静江さんと、よく買い物にいっているそうだし、父さんも、休日に暇をみては、幸の父親である大悟さんと、魚釣りにでかけたりしている。さらに、時間があえば、ホームパーティをひらき、おたがいに招待しあったりもする。
つまり、廣井家と宇佐美家は、家族ぐるみでのつきあいがあるわけだ。
両家の親交は、僕と幸との出会いからはじまった。ちいさな子供の関係が、おとなたちの結びつきのもとになったわけで、人間の縁とはふしぎなものである。
そして同時に、だからこそ、この貴重な関係を壊してはならないとも思う。幸に恋人になってもらえないのは悲しいが、それとこれとは話がべつなのだ。
台所で、冷蔵庫からおかずの皿を取りだした。それを電子レンジにかけ、ついでに味噌汁をあたためなおしたりしていると、玄関から声をかけられた。
「じゃ、母さんたちはさきにでるから、鍵はたのんだわね」
「ああ。いってらっしゃい」
時間の余裕はあるので、のんびりと朝食をたいらげた。それから、申し訳ていどにテーブルをふき、食器をシンクの水につけた。
制服に着替え、戸じまりを確認ののち、玄関をあとにした。
目的地は、僕の家と幸の家のほぼ中間に位置するコンビニ。そこには幸のほかに数名、知りあいと、そうでないひとたちが待っているはずだった。