第五十六話 六月十一日(月)黄昏 2
少々しんみりした雰囲気になってしまったが、今日のできごとについて、語るべき内容はまだのこっている。気をとりなおして、僕は委員長の話をすることにした。
「委員長って、小学生のころから小説を書いていたみたいで、その当時に買ってもらった辞書を、いまだに大切に使いこんでるそうなんだ。なんでも、指でページ数を当てられるらしいよ」
こちらの説明に、あすかはきょとんとしたような顔で小首をかしげた。
「指でページ数を? いったいどういう意味?」
「ひらいた場所が何ページめか、指先の感覚だけでわかるってことでしょ。たぶん、どのページにどんな言葉が書いてあるのかを記憶していて、必要なときにすぐに探しだせるんだと思う……」
いいながら、僕は唖然としていた。
いまさら気づいたけど、それってつまり、国語辞典の中身をぜんぶ暗記してるってことじゃないか。そこまでくると、ほとんど超能力の領域だな。というか、もう辞書いらないじゃん。
「へぇー、そりゃすごいね。なるほど、それでおもしろい小説が書けるのかぁ」
いかにも感心したというように、あすかがしきりとうなずいている。僕も、それについては同感だった。
だれにでもあてはまることではないのかもしれないが、委員長の小説にかぎっては、語彙量の豊富さが作品の質を高めている気がする。
「ところで、公平さ。委員長さんのこと、いつも役職名でよんでんの?」
唐突に、あすかが話の腰を折ってきた。彼女との会話では、よくあることである。時間を気にしているのか、もとからそういう喋りかたなのかはわからないが、ひとつの話題をあまり長く引っぱらないのだ。
もう慣れたが、はじめのころは、跳ねまわるスーパーボールのような話の飛びかたに、かなり困惑させられたものだった。
「ん? ああ、そうだね。なにしろ、去年からずっと『委員長』ってよんでたものだから、自分のなかで『安倍さん』ってのがしっくりこない……あれ? もしかして、あすかに彼女の名前、ちゃんと教えてなかった?」
「え? あ、ううん、ちゃんと聞いてるよ。安倍耀子さんでしょ? ほら、このまえの、生徒会役員選挙のときだったっけ。一年生の子から、苗字とアヴェマリアをひっかけて『マリア先輩』ってよばれてたとか、話してくれたよね」
おう、そうだそうだ。たしかに、そのことをあすかに言った記憶がある。
あの日は、各クラスの学級委員長があつまっている場で、うっかり僕が安倍さんに『委員長』と大声で呼びかけてしまい、そのせいで、全員がいっせいにこちらに振りかえるというコントのような状況が引きおこされてしまったのだ。
それで、後輩のひとり、徹子ちゃんのクラスの委員だったようだが、その子が『あたらしいニックネームを考えましょう!』と言いだしたのである。
「で、その委員長さんのことなんだけど、公平はどう思ってるの?」
「どう? ……えっと」
しらず、言葉につまっていた。
僕と委員長は、学校でよく会話をする友だちである。ここ最近は、時間があえばいっしょに帰ることもある。ふたりきりで遊んだことは、いまのところない。
だが、当然のことながら、あすかが聞きたいのは、そういう表面的な関係についてではないだろう。ずばり、男女交際の対象として、どう感じているかということであるはずだ。
さて、なんとこたえたものかな。
「アタシさ、公平がいっつも委員長っていってるから、ちょっとよそよそしい関係かと思ったりもしたんだ。でも、聞いてると、そういうわけでもないんだよね?」
「ああ、どちらかといえば、仲はいいほうじゃないかな。すくなくとも、僕は彼女がいい友だちだと信じてるよ」
とりあえず、友だちということで言葉をにごし、ほかの部分に補足をくわえておくことにした。
「あと、委員長ってのは、悪いあだ名じゃないんだ。安倍さんは面倒見がいいし、責任感が強いから頼り甲斐があるしで、長とつくポジションにつくのがふさわしい人柄をしてるから、むしろ、みんな親しみをこめて役職名でよんでる気がするね。たとえば……」
だが、せっかく僕が詳細をのべようとしているのに、あすかはどこかうわの空だった。顎のあたりに右手の人差し指を押しあて、なにか考え込んでいる様子である。
――と、あすかはふいににんまりとした笑みをうかべ、なにを思ったのか自分の胸のあたり――よく抱きつかれるので知っているが、わりとひらべったい――を持ちあげるようなしぐさをした。
「ねえ、委員長さんって巨乳なんだよね? 公平は、おっきなおっぱいは好き?」
「なっ……!」
一瞬にして、僕の顔面が沸騰した。
ええい、僕はアホか。年上の幸ならまだしも、まだ中学生のあすかにからかわれるなど、言語道断だ。男の沽券にかかわるぞ。
「わあ、やっぱりそうなんだ。ねえ、公平、委員長さんとお付き合いしたい? 恋人になってもらったら、おっぱい触り放題だよ?」
「と、年上の男をからかうんじゃありません!」
威儀をもって、ぴしゃりと言いはなったつもりが、どもってしまった。そのせいか、あすかはまったく怯みもせずに、さらなる追及をくわえてきた。
「だって、男と女がつきあうのって、そういうことでしょ? おっぱいに触るだけじゃなくて、もっとすごいことをして、子供だってできちゃうんだよ?」
「だ、だから、そういうのは、つきあったあとに考えるべきことであって」
思わず、しどろもどろになってしまった。
たしかに、僕だって健康な男子なわけだし、そのようなことを考えないわけではない。しかし、そうかといって、女子を相手にあけすけに語るようなことでもないだろう。
「公平!」
予想外に、強く声をかけられた。そのあまりの勢いに、僕はまるで怒られているかのような、みょうな違和感をおぼえた。
見ると、いつのまにか、あすかが真顔になっていた。ほんのさきほどまで、幸を彷彿とさせるようなニヤニヤ笑いをうかべていたはずなのに、いまは凛々しいとすらいいたくなるような引き締まった表情である。
さすがに、この真剣な態度には、こちらも居住まいを正さざるをえなくなった。背筋を伸ばし、相手の言葉をまった。
「つきあったあとじゃないの。そのまえに考えるの。まちがって、変な理由で変なのを選んじゃったら、公平、しあわせになれないんだよ? そしたら、アタシだって成仏できないんだから」
……はあ?
なんだそりゃ。まじめな顔をして、なにを言うのかと思ったら、そんなことかよ。
「ちがうよ。そんな理由でつきあうなんておかしいよ。あすかのいっていることって、体が目当てとか、そういうのとおなじじゃないか」
「おかしくなんかないの! 男と女は、結局はふれあいたいと思った相手といっしょになるのが正しいんだから! それ以外の理由でつきあうのは不純なんだよ!」
ほんとうに、なにをいっているのだ、この子は。
自分のなかで、あすかの言葉を不愉快に思う気持ちがわきあがってくるのを感じた。
もとより、女子の体に魅力を感じることは、男として自然なことである。だが、それだけが交際の目的になってしまったら、さかりのついた犬や猫となんらかわりないではないか。人間なら、もっと精神的な部分を重視するべきだろう。
だいいち、不純異性交遊というのは、あすかがいうような種類の交際をさす言葉だと思うのだがね。そういうことを、したい人間が自分たちでかってにやるぶんにはどうでもいいが、僕にもやれと……うん?
いや、まてよ。なにか自分が変だ。みょうに、頭に血がのぼっている気がする。ちょっと落ちつけ。
ふむ……。この話題は、つづけてもあまりいいことはなさそうだな。雰囲気が悪くなるまえに、早めに話を切り上げたほうが得策かもしれない。
「オーケイ、わかった、あすか。もういいよ。そっちの考えは聞いたから、この話はここでおわりにしよう。こんなの、喧嘩するようなことじゃないだろ」
しあわせの形はひとそれぞれ。考えかたも同様である。あすかの意見に納得はしていないが、ここで言い争う意味も、その必要もないのだ。
どうやら、あすかのほうは、まだ言い足りてはいないようだったが、こちらが反論しないのが功を奏したのか、それ以上しつこく食いさがってはこなかった。