第五十五話 六月十一日(月)黄昏 1
「じつは、昼食のあとに、幸が委員長たちとアルバムの見せっこをしていたんだけど、なぜか僕も同席させてもらえることになってさ」
手はじめに、僕は昼休みの顛末を面白おかしく語ってきかせることにした。赤ん坊の写真から、例のキスの写真についてもである。
「うっわあ、アタシも見たかったなあ、それ。……でも、なんで公平のファーストキスの写真がのこってんの?」
聞かれるよなあ、そりゃ。
けど、かってに話してしまってもいいものかな。つかのま、僕は迷った。委員長や、堤さんには、あいまいな説明しかしていなかったのである。
……まあ、かまわないか。あのふたりに言わなかったのは、幸が教えたければ自分で話すだろうと思ったからだ。あすかにたいしては、秘密にしなければならない理由はなにもない。
「かれこれ、七年まえになるのかな。僕と幸が小学四年生だったときの話なんだけど……。そのころ、この近所に三ノ杜小学校というのがあって、そこは校舎が古かったんだ」
現在、僕たちがかよっている三ノ杜学園は、全館冷暖房完備である。一年をつうじて、勉強をするのに快適な環境が提供されている。
しかし、学園が成立する以前に存在していた小学校は、そうではなかった。夏は蒸し暑いし、冬も教室に旧式のストーブがひとつあるきりだったのだ。
とくに、夏の暑さは深刻だった。あれは、勉強をするのには絶対にむかない環境だったと断言できる。
もっとも、いくら気候がきびしいといっても、しょせんは日本列島のなかのことである。健康にめぐまれた人間であれば、ふつうはすこしばかり我慢をすればすむ話だ。
ところが、僕の友人にひとり、そういうレベルでは語れない人物がいた。それが、幸だった。
幸は、白い髪に白い肌、赤い瞳という特殊な外見をしている。人体を紫外線から守るメラニン色素が、先天的に体内にほとんどないのが、その理由である。
すなわち、彼女は外出時に日焼け止めクリームを塗るのは当然として、さらに夏でも長袖・長ズボンを着用しなければならないわけだ。
元気な人間でも、夏の暑い盛りにそんなかっこうをしていたら、熱中症になる危険がある。まして、幸は常人よりも体が虚弱で、しかも当時から人並みはずれた小柄な子供だったのだ。
そこで、彼女の両親と担任らとのあいだで話しあいがもたれ、むりに学校にかよわせるよりはと、夏場は自宅で自主学習ということになった。そのころは、毎年そんな感じだった記憶がある。
「天気予報とか、医者の診断とかの兼ねあいもあるんだけど、だいたいは七月の頭から自宅学習期間にあてられてたかな。あと、夏休みをはさんで、九月いっぱいも」
「へえ。それって、ちょっと早めにはじまって、おそくまでつづく夏休みみたいなもん?」
長い夏休みといわれたら、幸はたぶん嫌な顔をする。べつに、好きで休んでいたわけではないし、なにより、その期間の授業に相応する分量の課題を、きちんとこなしていたのだ。
いまでこそ、成績はこちらが上位だが、あのころは、僕のほうが幸に勉強を教わったりしていたのである。
「夏休みじゃなくて、自宅学習だよ。……で、そういうときに、プリントなんかを幸の家にもっていくのは、僕の役目だったんだ。幼なじみで、彼女の両親ともしたしいから。といっても、お母さんからお菓子をごちそうしてもらったりして、役得もおおかったけどね」
「ふうん……。でも、それとキスの写真と、どんな関係があるの?」
一瞬、僕は口ごもった。あまり、楽しい思い出ではないのだ。もう七年もたつというのに、あのときの辛さは、いまだに生々しくよみがえることがある。
それでも、僕はおほんとひとつ咳払いをしただけで、話を止めることはしなかった。
「ある日のこと。学校の帰りに、プリントを届けに彼女の家に寄ったら、ひとの気配がまるでなくなっていた。ご家族がいないだけならまだしも、自宅学習しているはずの本人を呼んでも出てこない。それで、とりあえず自分の家にもどったら、聞かされたわけ。幸が入院したって」
入院と聞いて、あすかの表情が真剣なものにかわった。
「もともと、ちょっとまえから体調が思わしくなかったみたいで、当初は大事をとっての入院だったらしいんだ。お見舞いにいったら、ただの風邪だからだいじょうぶといって笑っていた」
「だいじょうぶじゃ、なかったの?」
すこし、心臓の鼓動が早くなってきたようだ。気持ちを落ちつけるため、僕はゆっくりと深呼吸をした。もう、ずっとむかしのこと。なあに、どうってことはないさ。そう心のなかで自分に言いきかせた。
「最初は、ただの風邪という話だったんだ。なのに、そのうちに肺炎ということになって、お見舞いを断られるようになった。面会謝絶ってやつ」
つとめて、深刻にならないように、軽い感じでいってみた。あすかは、一言もしゃべらずに、じっとこちらを見つめている。
「二週間……三週間だったかな。そんな状態がつづいたあと、やっと幸のお母さん――静江さんから連絡がはいった。娘が会いたいといっているから、よかったら来てくれって」
静江さんとは、病院の玄関で待ちあわせをした。会ってみると、彼女は安心したような笑顔をうかべていた。
すでに病気も治り、あとは体力の回復をまつだけ。ほんとうは、まだお見舞いをしてもらうのには早すぎるのだけど、幸がどうしてもというから、来てもらった。
しばらくご飯が食べられなかったから、すこし痩せて力も出ないけど、もう心配はいらない。
そんなことをいって、静江さんは、僕を幸のもとに案内してくれた。
場所は、カーテンが閉めきられていて、薄暗い病室だった。入院患者である幸の体質にあわせていたのだろう。僕がそこにはいっていったとき、彼女はベッドに横たわっているところだった。だが、動作こそゆっくりではあったものの、すぐに体をおこして『来てくれてありがとう』と言った。
ベッドのよこには、台のようなものがあった。そのうえに、刻んだリンゴの盛られた皿が置いてあった。幸はそれに手をのばすと、なかのひと切れにフォークを刺して、こちらに差しだしてきた。
来てくれたお礼。そういって、ほほえむ幸の手が、ふるえていた。まるで、ひどく重たいものを持っているかのように。
間近に見る幸の手首は、僕がしっているよりもひと回り以上も細くなっていた気がした。そして、彼女の顔。頬がこけていた。
人間とは、ほんの何週間かでこんなにも痩せるものなのか。僕はそのとき、そう思った。それから、幸はこのまま死んでしまうのかもしれないとも。治って、あとは回復をまつだけだと聞いたばかりなのに、そんなことは頭から完全に抜けおちていた。
涙があふれて、止まらなくなった。リンゴはいらない。ほかのものが欲しい。彼女の手をとって、僕はそう言ってしまっていた。幸は困ったように小首をかしげたあと、もう片方の手でこちらの頭を撫でてくれた。
「もしかして、キスして欲しいってお願いしたの?」
「うん。退院して、学校にかよえるようになったらという約束で。キスぐらい、いますぐしてやるって言ってくれたんだけど、それは遠慮させてもらった」
僕は、ただキスがしたいという理由だけで、そんなお願いをしたわけではなかった。それ以上に、幸に生きていて欲しかったのだ。退院したあとの約束は、そのための願かけという意味あいが強かったといっていい。
結局、僕の心配は、子供っぽい杞憂にすぎなかった。幸は順調に回復し、秋口には学校にもかよえるようになった。あの写真は、退院祝いのパーティで撮ったものである。たがいの両親が見守るなか、僕たちははじめてのキスをかわした。
ちなみに、わが家にはその一部始終をおさめたビデオなども保管されていたりする。
「で、そのときいっしょに、ちいさなころの写真を何枚か交換したんだ。今日、幸がもってきた赤ん坊のときの僕の写真も、そのなかの一枚だよ」
交換といっても、もともとは、なにかあったときの形見にと、幸がむりやり自分の写真を押しつけてくるような感じだった。
なぜ『形見』という言葉をつかったのかは、よくわからない。病室でのあのやりとりから、そういうことを連想させてしまったのか、あるいは単純に、ひとりでそこまで思いつめたことがあったのか。
とにかく、僕はそれを断った。
「せっかくぶじに退院できたのに、なんで形見なんていうんだろうって思ったよ。そしたら『いうことを聞かないとキスしてやんないぞ』ってごねるもんだから、こちらの写真をわたして、取り替えっこという形にしたわけ」
「そっか……。そんなことがあったんだね」
つぶやくように、あすかがいった。どこか切なげに、彼女は眉根をよせていた。
「でも、こういうのって、終わってしまえばいい思い出になりそうなものだけど、僕にとってはそうじゃなかったんだよね。この当時は、夜になると幸がいなくなる夢ばっかり見ちゃってさ」
文字通り、それは『幸がいなくなる夢』だった。
なんらかのストーリーが存在するわけではなく、ただひたすら、幸がいなくなったという喪失感がつづくのである。
目がさめて、自分が夢を見ていたことに気づいて安心する、そんな夢だった。
「あのころは、夜が来るのが怖かったなあ……。幸が退院して、学校で毎日あえるようになったら見なくなったけどね」
だが、かわりに、ふとしたきっかけで、喪失感だけがぶりかえすようになった。幸がいなくなるかもしれない。そう思うだけで、いまだに胸が苦しくなる。
「公平、幸さんは」
いいかけて、しかしあすかはうつむいてしまった。
「あすか?」
「きっと……幸さんは、しあわせだったんじゃないかな。そんなふうに、公平から大切に思われて」
なら、いいんだけどな。残念ながら、幸は必要以上に心配されるのを好まない性格をしているので、そこまで好意的に捉えてもらっているかは疑問である。
また、一般論からいっても、あのときはすでに病気自体は治っていたわけで、見舞い客が勘違いして泣きだしたら、むしろ病人の負担になりそうな気がする。
――などと、そんなどうでもいいような理屈を、相手に言いかえす気はなかった。あすかの発言が、こちらをおもんぱかってのものだということは、よくわかっているつもりである。
だから、僕は笑って、彼女の頭をいくぶん強めになでてやった。あすかはすこし驚いたようだったが、抵抗はせず、されるがままにしていた。