第五十四話 六月十一日(月)夕方 2
「じゃあ、またあしたね、廣井くん」
「ああ……」
挨拶をして、委員長と別れたあと、僕はすぐにもと来た道をもどりはじめた。月曜なので、いつもの公園へとむかうためである。
といっても、待ちあわせの時間にはまだかなり早かったのだが、なんとなく、ベンチにでも座って、ゆっくり考えごとをしたい気分だったのだ。
委員長に言われたことについてである。
たしかに、幸に気持ちを受け入れてもらえなければ、ずっとこのままではいられないのは自分でもわかる。将来的には、ほかにいいと思える女を見つけなければならない。
だが、いつか、幸以外のだれかを好きになるとして、それはいったいどんなひとなのだろう。
正直なところ、ぴんとこなかった。
もちろん、女性そのものにはふつうに魅力を感じているし、この年になって、男女交際への欲求や関心がないなどというつもりもない。
ただ、自分が幸以外の女を好きだとかなんとかいっている図が、どうにも思い浮かばないのだ。
あるいは、これも、委員長から見たら、気持ちを決めつけているということになるのだろうか。
しかし、だからといって、自分の心にウソをついて、むりにほかのひとを好きになるわけにもいかないしなあ。
そんなふうに、物思いにふけりながら、道を歩いていたときだった。
突然、背後から声がした。
「わあっほーい! こーへーい!」
あれ、と思った瞬間には、すでに背中のあたりにひとの気配を感じていた。
だれかが、こちらにぶつかろうとしている。
まずい。
なにか、まずいぞ。
僕は全身に気合をみなぎらせた。
どっしーん。
「ぐふっ?」
高速移動する物体――推定重量四十キロ以上――の直撃をうけ、あまりの衝撃に、僕はつんのめりそうになった。なんとか転倒せずにすんだのは、反射的に足をまえに出すことができたからだった。
――と、僕にぶつかってきただれかは、そのまま肩のあたりに腕をまわし、背中にしがみついてきた。
「公平、おんぶ、おんぶぅ!」
まったく、なんでいつも、こんなふうに不意をうって体当たりをかましてくるのかね。僕は苦笑しつつも腰をおとし、相手をおんぶしてやった。
おう、よしよし。しょうのない子だなあ。
「どうしたの? 今日はずいぶんと早いんだね」
あたりにひとがいないのを確認して、僕は相手に声をかけた。顔を見なくても、声と服ごしにつたわる冷たさでわかる。あすかだった。
「早い? なにが?」
「来る時間だよ。まだ暗くなってないし」
このかわいらしい幽霊があらわれるのは、毎週月曜の夕方、黄昏どきである。すなわち、日が暮れたあと、空に薄明かりがひろがるような時間帯だ。
決まった時刻ではないので、日没が遅くなれば、あすかの来る時間もそれに比例してずれこむことになる。事実、先週、彼女に会ったのは午後七時を回ってからだった。
ところが、いまはまだ六時を数分ほどすぎたぐらいである。こんなに明るい時間帯にあすかがあらわれたのは、はじめてのことだった。
「ん? ありゃ、ほんとだ。明るいみたいだね、なんでだろう……」
真剣に答える気があるのか、よくわからない態度で、あすかがいった。
まあ、僕としては、早い時間にあえるなら、それにこしたことはないのだが。なにしろ、家に帰るのが遅くなりすぎると、母さんから小言をもらってしまうのだ。
しかも、小言だけならまだしも、このあいだなどなにを勘違いしたのか、女の子と遊んでいたのではと疑われてしまった。
いや、たしかにあすかといっしょだったのだからそのとおりなのだが、微妙に意味がちがうわけで。
ともあれ、ぶつかられたときの姿勢のままだと腰がきつい。僕は『よっ』と声をだし、気合をいれて体勢を立て直した。
ここからだと、公園までは、そんなに距離はない。よし、このままおぶって連れていってやるとするか。なに、あすかひとりを運ぶぐらい、たやすいことだ。
「ね、公平。今週はどんな一週間だった? 女の子と仲良くなれた?」
こちらの肩のあたりに頬ずりしながら、あすかがたずねてきた。
「うーん、そうだねえ……。えっと、先週の火曜日に」
歩きながら、僕はあすかに、この一週間におこった女の子がらみのイベントを話して聞かせた。
もっとも、イベントといっても、たいしたことはなかった。休み時間に、勉強のわからないところを聞きに来た子がいたとか、街でばったり出会って挨拶した子がいたとか、そんなていどのことばかりである。
「ダメだめぇ! そんな消極的な態度じゃ、女の子とつきあうなんてむりだってば。公平が幸せになってくんないと、アタシも成仏できないんだから、もっとがんばってよぉ」
「そう言われても」
話をしているうちに、公園についたので、僕はあすかを地面におろしてやった。
「で、ほかには?」
「あとは、今日のことかな。……とりあえず、座ろっか」
ふたりして、ならんでベンチに腰をおろした。あすかが、あたりまえのように、こちらにもたれてきた。僕は彼女の肩に腕をまわして抱きよせると、軽く頭をなでてやった。
「今日って、なにかいいことでもあったんだ?」
あすかは目をとじて、くすぐったそうにしていた。ほんのりと、口元に笑みをうかべている。
こうしてみると、幼い感じは抜けていないが、よくととのっていて、すなおに綺麗だと思える顔立ちだった。