第五十三話 六月十一日(月)夕方 1
徹子ちゃんが行ってしまったので、僕たちも家に帰ることにした。もともと、そこまで教室に長居をするつもりはなかったのである。
ただし、太陽こそ、かなり傾いてはいるものの、まだ外は充分に明るかった。夏が近づいているため、日が落ちるのが遅いのだろう。
ふたりの影が、道路にながくのびている。僕たちはならんで、ゆっくりとそれを追いかけていた。
「だけど、あいつのナンパ好きが、じつはフリだったとはねえ」
さきほどの徹子ちゃんとの話しあいは、僕にとって、ものすごく衝撃的なものだった。
彼女がすでに兄への告白をすませてしまっていたというのも驚きだったが、ゴーが、妹の気持ちをあきらめさせるために、女好きの演技をしていたなどとは、想像もしていなかったのだ。
ところが、たいする委員長の相槌は、なんとも歯切れの悪いものだった。
「うーん、ちょっと違うような気が……」
見ると、彼女は小首をかしげていた。はて、どうしたのだろう?
「ちがうって、なにが?」
「なにっていうか……。もしかしたら、きっかけはそういうことだったのかもしれないわね」
いって、委員長はすこし困ったような表情をうかべた。
「でも、すくなくとも、いまの錦織くんは、べつにあの子のためとかじゃなくて、ふつうに楽しいから、合コンとかナンパとかをしているんじゃないかと思うわ」
「えっ? けど、さっき徹子ちゃんが」
僕が聞きかえすと、委員長はひどく言いにくそうにつづけた。
「ええと、だから、こういったらなんだけど……あの子、ずいぶんと思いこみが強いみたいだし、ひとりでかってにそう信じこんでいるだけなんじゃないかなと」
その意外な言葉に、僕はぽかんと口をあけてしまった。
委員長のいうとおり、徹子ちゃんは思いこみの強いタイプである。こうと決めたらどこまでもまっすぐに突っ走り、それが原因でトラブルを引きおこしたことも、いちどやにどではない。
本人の弁を妄信するよりは、委員長の考えのほうが、たしかに一理ありそうな気がする。
しかし、そうなると、やはりゴーは女好きだったということになるのか? わけがわからなくなってきたぞ、いったいどっちなんだ?
「まあ、そこのところの事情は、錦織くん本人にしかわからないことだから、気になるなら、あとで聞いてみたらいいんじゃないかしら。……で」
ふいに、委員長が、まなざしを真剣なものにかえた。
「廣井くんは、どうするの?」
「へ?」
突然の話題転換だった。しかも、いろいろとはしょりすぎて、言葉の意味がつかめない。
ふしぎに思って委員長の顔をながめていると、彼女はこちらのとまどいに気づいたのか、あらためて言いなおしてくれた。
「あなたは、うさっちへの気持ちをどうするの? あきらめる? それとも、いつまでも絶対に好きでいたい?」
おだやかな口調でつむがれたその質問に、しかし、僕はどきりとしてしまった。同時に、心のなかにもやもやしたものがひろがりはじめた。
「わたしね、あの子の話を聞いて、廣井くんとうさっちの関係に似てる気がしたの。もちろん、あなただったら、あんなふうに激情にかられた行動はとらないだろうけど」
「そう……なのかな」
似ているかもしれないと思った。
たとえば、対応する性別は逆だが、気持ちが一方通行であるという点が似ている。また、それを自覚してなお、相手が許容してくれることに甘え、形だけの親密な関係をつづけていたという点もそうだ。
いちおう、僕は徹子ちゃんほどの強引さで幸に迫ったりはしていないつもりだが、やはり、あきらめることができていないという意味では、似ているといっていいだろう。
「幸への気持ちを、僕は……どうしたらいいか、わからないってのが、正直なところかな」
実際、自分で考えてみても、どうするのが最良の手段なのか、見当もつかなかった。
正確には、感情という部分を無視すれば、届かない思いなどあきらめて、あたらしい恋でも探したほうがいいのは、すぐに考えつくことだ。
だが、僕の幸への気持ちは、ほとんど心のなかに住みついているといってもいいほどのものなのである。
いや、住みついているだけなら、出ていくことだってあるだろう。むしろ、染みついているといったほうが適切かもしれない。僕の心のなかにいる幸は、この廣井公平という人間が存在するかぎり、いなくなるとは思えなかった。
「変な言いかただけど、僕にとって、幸を好きという気持ちは、自分自身とおなじなんだ」
「自分自身?」
要点で、オウム返しをされるような聞きかたをされた。こういうふうにされると、自分のいっていることを真剣に受けとめてもらえている気がして、つい深いところまで語ってしまいたくなるのである。
話術のたぐいだと、知ってはいたが、とくに嫌な感じはしなかった。委員長は、友人として、ほんとうにこちらの悩みを受けとめるつもりで、こうしてくれている。これまでの彼女との関係から、僕はそう信じることができた。
「ほら、コーヒー牛乳ってあるでしょ? あれ、いちどつくったら、もうコーヒーと牛乳にわけることはできないじゃない。それといっしょで、幸を好きという気持ちを、僕から消すことはできないんだ」
ことさらに明るくいいながら、僕は泣きたいような気分におちいっていた。理由は、よくわからなかった。
「もし、むりやりにでも消そうとするなら、それこそカップの中身が気に入らないからって、あけてしまうようなものだよ。そんなことをしたら、僕の心がからっぽになってしまう。埋めようもないぐらいに」
「……うさっちのことが、すごく好きなのね」
一瞬、空気がかわったような気がした。
思わず、僕はその場に立ちどまった。委員長は、数歩まえまですすんでから、こちらに振りかえった。
ほほえみをうかべている。しかし、どういうわけか、彼女のその笑顔が、僕にはひどく悲しげな表情であるかのように見えた。
「ひとを好きになるのは、素敵なことのはずなのに、なんでこんなに辛くなるのかしら」
たしかに、それはそのとおりである。幸を好きでいつづけることは、はっきりいって辛い。むこうがただの友だちとして、最上級の好意をくれるからこそ、なおさらそうなのだ。
「ねえ、廣井くん」
ほんのすこしうつむきがちに、それでもほほえみはうかべたままで、委員長はつづけた。
「からっぽのカップには、あたらしい飲み物を入れればいいし、それ以前に、もしかしたら、牛乳の混ざったコーヒーでもいいっていうひとだっているかもしれないの」
いったんそこで言葉をくぎり、彼女は顔をあげて、僕をじっと見つめてきた。
「だから……。そんなふうに、自分の気持ちを決めつけようとしないで」
夕日に照らされた委員長のたたずまいはどこか切なげで、僕は彼女も、だれかを好きになって辛くなったことがあるのだろうかと、ぼんやり思った。