第五十二話 六月十一日(月)放課後 4
「ひとつ、確認しておきたいんだけど」
徹子ちゃんが落ちつくのを見計らって、委員長がいった。
「あなたは、お兄さんへの気持ちを、ほんとうにあきらめるつもりなのね? どうしても、ずっと好きでいたいとかじゃなくて」
さきほど、徹子ちゃんは『あきらめている』といった。だが、委員長がたずねているのは、そういう口先だけの答えではないだろう。
たぶん、委員長は、こんご徹子ちゃんが兄との関係をどうしていきたいのか、その意思のむかうさきを聞こうとしているのだ。
「わたし、タケくんのことを好きでいたら、いけないんでしょうか……」
彼女の返事は、迷いに満ちたものだった。しかし、だからこそ、それは徹子ちゃんの本心からの答えである気がした。
「だれかを好きになるのは、たしかに素敵なことだわ。だけど、かならず気持ちが届くとはかぎらないし、かなわなかったら、どこかで折りあいをつけなければならないと思うの」
にこりとほほえんで、委員長がいった。その口調は、やはりおだやかだった。どこか、やさしく諭すような響きもあった。いかにも、頼りがいのある先輩といった雰囲気である。そんな彼女の姿を見て、僕もだまっていられない気持ちになった。
「えっと、徹子ちゃん、ちょっといいかな」
こちらからそう声をかけると、徹子ちゃんは僕のほうに向き直ってきた。
正直なところ、この話は、あまりひとに聞かせたいものではなかった。コイバナなど得意ではないし、そもそも、これが適切なアドバイスになるかすらわからないのだ。
それでも、いちおう目上なのだから、こういうときに、多少なりと経験談を聞かせられなければ、年をとっている意味がないと思ったのである。
「公平さん?」
「じつは……。僕は以前、幸に告白しているんだ。まあ、その場でふられちゃったんだけどね」
ゴーがしっていたぐらいだから、おそらくは徹子ちゃんも、僕が幸に恋心をいだいていることは了解済みなのだろう。だが、すでに告白しているということまでは、把握していないはずだ。
案の定というべきか、彼女はこちらの言葉に、息をのんだような声をあげた。
「ふ、ふられた? いったい、いつのことですか、それは?」
「今年の四月……。ほら、始業式の日の朝、ボランティアをやったよね。あの前日」
よほど意外だったのか、徹子ちゃんは放心したように、視線を宙におよがせはじめた。
「ウソ……。わたし、おふたりはてっきり、周囲に秘密でとっくにつきあっているものだとばかり」
そんなふうに、見られていたのか。
事実は、まったくちがっている。幸はうれしいといって、しかし、泣きながら、僕からの交際の申しこみを断ったのだ。そして、ふたりでいままでどおりの幼なじみをつづけることを約束した。
「幸は僕のこと、異性としては見られないんだってさ。あんなにちいさいのに、こんなにおおきな男をつかまえて、弟あつかいなんだ。困っちゃうよね」
自分でも、はっきりそれと自覚できるほどの自嘲の笑みを、僕はうかべていた。
なにがおおきな男だ。
たしかに、背はむだに高くなったし、趣味レベルとはいえ、日常的に鍛えているのだから、なにもしていない人間にくらべれば、いくらかは筋肉もついているかもしれない。だが、それだけなのだ。幸に抱きしめてもらわなかったら、愛の告白すら満足にできなかった。
「……で、そのときに、たがいに言いあったんだよ。恋人としてつきあうことができなくても、せめてふたりの関係を崩したりしないように、ずっと仲のいい友だちでいようねって」
「信じられないです。だって、公平さんと幸さんが、そんな……」
うつむきがちに、徹子ちゃんがいった。声が、ひどく沈んでいた。
もとより、彼女を落ちこませるのは、目的とするところではない。重要なのは、このあとに言うことである。
「ねえ、徹子ちゃん。僕と幸は、どうしたって他人だから、いまはこうして友だちでいられるけど、いつまでもこのままとはかぎらないんだ。それこそ、ちょっとしたことで、関係が壊れてしまうことだってありえる」
いったんそこで言葉をくぎり、ひと呼吸おいてから付けくわえた。
「だけど、徹子ちゃんとゴーは、実際に家族なんだからさ。もちろん、努力は必要だけど、いい関係を維持することは、僕と幸にくらべれば、ずっとやりやすいはずだよ」
「彼のいうとおりだと思うわ。今回のことも、早めにあやまっておけば、すぐに済んだことだったんじゃないかしら。心のなかまでは縛れないし、好きなひとと結ばれないのは悲しいけど、それとこれとは別の問題よ。なにかがうまくいかないからといって、ほかのものまでいっしょに壊してしまう必要はないんだから」
絶妙のタイミングで、委員長がフォローをいれてくれた。内容も、僕が言いたいことを汲みとってくれたものだ。これなら、きちんと徹子ちゃんに伝わるかもしれない。
僕たちの意見をうけて、徹子ちゃんはつかのま、迷うように目をふせていた。しかし、やがてふだんの彼女らしい決然とした表情をとりもどした。
「今日のうちに、わたし、タケくんと話をしてみることにします。公平さん、マリア先輩、どうもありがとうございました」
そうして、立ちあがると、彼女はぺこりと一礼して、教室をあとにした。その背中に、僕は心のなかで、がんばれとエールをおくった。