第四十九話 六月十一日(月)放課後 1
午後の授業はとどこおりなくすすみ、やがて放課ということになった。
今日の放課後は、とくに予定はないはずだった。にもかかわらず、ホームルームのあとに、担任の嵐山から呼びだしをうけてしまい、委員長とふたりして、雑用の仕事を手伝う破目になった。
学級委員とは、担任からいいようにこき使われることを宿命づけられた存在であるらしい。去年からのこととはいえ、まったく、嫌になってしまうな。
それでも、がんばって仕事をおわらせ、ようやく教室にもどってきたら、すでにクラスメイトはだれもいなくなっていた。幸もである。なにも約束していなかったので、さきに帰ってしまったようだ。
ともあれ、すぐに家に帰るのもさびしい気がしたので、僕は委員長と、席について、すこし話をしていくことにした。
聞けば、あす六月十二日は、委員長の誕生日であるらしい。僕がおめでとうの言葉をのべると、彼女はありがとうといって、はにかんだようにうつむいた。
「……あら?」
そういって、委員長が怪訝そうな顔をしたのは、僕たちが会話をはじめてから十分ほどたったころだった。
「ねえ、彼女、この教室になにか用でもあるのかしら? 下級生よね?」
いわれて、教室のうしろがわの出入り口のほうを見ると、たしかに、ひとりの女子がたたずんでいるのが目にはいった。それも、僕のよくしっている顔である。
「ああ、あの子はゴーの妹だよ。徹子ちゃんっていうんだ。……やあ、こっちにおいで。教室にくるなんて、めずらしいね」
手招きをうけて、徹子ちゃんが教室にはいってきた。近くまで寄ってきたので、椅子をすすめたのだが、彼女はそのまま突っ立っているだけだった。
「公平、さん……」
はて?
なにか、みょうだと思った。徹子ちゃんの口調が、いつになくしおらしかったのである。ふだんなら、敬語主体の言葉遣いのなかにも、随所に気の強さがかいま見えるはずなのに、いったいどうしたのだろう。
「タケくんは、……もう、部活には、いきましたか?」
それは、ごくありきたりな質問だった。彼女の、ものすごく勇気をふりしぼったかのような態度を除けばという但し書きはつくが。
「さあ……? もういったと思うけど。いまの時間だったら、グラウンドを走ってるんじゃないかな?」
ここで、僕はさらなるべつの違和感をおぼえた。
そういえば、徹子ちゃんと最後に会ったのは、いつだったろう。この一週間ばかり、姿を見ていなかった気がする。みんなで登校するときにも、彼女だけはいなかったし、ゴーに理由をたずねても、要領をえない回答しか返ってこなかった。
「廣井くん?」
小声で、委員長がこちらに話しかけてきた。心配そうに、眉根をよせている。だが、いわれるまえに、僕も気がついていた。あきらかに、徹子ちゃんの様子がおかしい。顔は赤いし、口のあたりに両手をあてて、目をふせたりしている。
――と、鼻をすする音が聞こえてきた。目のふちあたりから、しずくがこぼれ落ちるのも見えた。
すぐに、僕は立ちあがった。そうして、徹子ちゃんの肩をつかむと、強引に近くの椅子に座らせてやった。
抵抗はされなかった。徹子ちゃんは、椅子のうえで、体をただ小刻みにふるわせているだけだった。
まるで、おびえる仔犬のようだと思った。こんなにも悄然とした様子の彼女を、僕は見たことがなかった。
委員長が、徹子ちゃんにティッシュを手渡した。いちど鼻をかみ、彼女はそれで、ようやくいくらかの落ちつきを取りもどしたようだ。
もっとも、だからといって、ほかになにか動きがあったわけでもなかった。徹子ちゃんは、じっと膝のうえで拳を握りしめ、黙ってうつむいていた。
「わたし、ここにいないほうがいいんじゃ?」
そっと、委員長が僕に耳打ちしてきた。
「どう見ても、プライベートな悩みみたいだし」
「いや、できたら、このままいてほしいな……。ひとりで女の子の悩みの対処なんて、正直、僕にはちょっと荷が重いよ」
幸がいてくれたら、徹子ちゃんももっと話しやすかっただろうに。そんな思いが頭をよぎったが、詮のないことだった。とっくに、帰ってしまったあとなのだ。
「あのさ、徹子ちゃん」
とりあえず、僕はできるだけやさしい声をかけてみることにした。
「もしも、悩みごとがあるんなら、相談にのるよ。……あ、彼女は、僕といっしょに学級委員をしている安倍さん。ゴーや幸とも仲がいいし、信用できるひとだから、聞いてもらっても、ぜんぜんだいじょうぶ」
ついでといっては失礼だが、いっしょに委員長の紹介もしてみた。われながら、おかしな言いまわしになってしまった。どうやら、こちらもあわててしまっているらしい。
「錦織さんね。わたしでよければ、話を聞くぐらいはできるわ」
逆に、委員長は冷静な様子だった。こういうことには、慣れているのかもしれない。彼女がいつも役職名でよばれているのは、伊達ではないのだ。世話好きで、頼りがいのある性格をしていればこその愛称である。
だが、徹子ちゃんは不安げなまなざしはそのままに、意外なことを言ってきた。
「えっと……、マリア先輩、ですよね? いちおう、しってます」
「は?」
思わず、僕は委員長と顔を見あわせてしまった。
マリアというのは、先日、学級委員として生徒会役員選挙の手伝いをした際、おなじグループだった下級生の女子が考案したニックネームである。委員長の名前『安倍耀子』の安倍に、キリスト教の聖母マリアを祝福する言葉『アヴェ・マリア』を引っかけただけの、シンプルなものだ。
「そ、その呼びかたは、照れちゃうというか」
くすぐったそうに、委員長が頬のあたりを掻いた。さすがに、聖母になぞらえられるのは面映いらしい。いっぽう、僕はといえば、なぜ徹子ちゃんがそれを知っているのかわからず、首をかしげてしまった。
というのも、そのニックネームは、あくまでも生徒会役員選挙の期間中に、いちぶの仲間内だけでしか使われていないものだったからだ。そして、徹子ちゃんは生徒会関係者でもなければ、学級委員でもないのである。
「うちのクラスでは、マリア先輩のことはかなり有名ですよ。副委員の子が、先輩のファンなんです」
どこか固い表情で、徹子ちゃんがいった。彼女の説明に、僕はマリアというニックネームを考えた例の下級生を思いうかべた。
たしか、歯並びを矯正する器具をつけていた気がする。ほっそりした体格で、背が委員長よりもいくぶん高かった。あの子は、そういえば徹子ちゃんのクラスの副委員だったかもしれない。なるほどね。
すると、突然、委員長がおほんと咳払いをした。
「で、悩みというのは?」
おっと、いけない。話が脱線してしまうところだった。あわてて、僕は気を取りなおすことにした。
徹子ちゃんは、いわれてすぐに視線をしたに落とした。しかし、すぐにふたたび顔をあげ、こんどはこちらのほうをちらりと見た。と思ったら、またしても委員長のほうにむきなおった。
ひどく、気ぜわしげな様子である。言いたいことがあるのに、言葉が出てこないというような感じだった。
これは、なにかきっかけが必要かもしれない。そう思い、僕は自分から質問をしてみることにした。
「ゴーについてのことだと考えていいかな?」
とたんに、徹子ちゃんが目を見開いた。その反応に、僕はやはりかと小声でつぶやいた。彼女がこんなにも心を痛める原因は、ゴー以外にはありえないのだ。
義理の関係とはいえ、妹でありながら、徹子ちゃんは兄にはっきりと恋心をいだいている。
以前から、ブラコン気味なところはあったが、今年、とくに学年があがって以降の彼女の態度は、もはやそんなレベルを軽く超えたものだった。ゴーが、僕や幸に愚痴をこぼすという形をとって、相談してきたほどだったのだ。
しかし……。そうなると、かなりまずいな。委員長は、徹子ちゃんとは初対面のようだし、いくら僕や幸、ゴーともしたしい人間だからといって、兄妹間の恋愛などという特殊な問題を、簡単に説明できるはずがない。
もちろん、委員長が、こういうときに相手を傷つけるような対応をするとは思わないが、徹子ちゃんのほうが言いにくいに決まっている。
「もし、どうしても相談できないようだったら、むりはしなくてもいいよ。内容によっては、他人に知られたくない場合だってあるだろうし」
ひとまず、本人の意思にまかせることにした。委員長でだめなら、あとで幸に電話をかけてもいい。
ところが、徹子ちゃんは、こちらの言葉に、むしろ意をけっしたような表情をうかべ、はっきりとした口調でいいきった。
「いえ、聞いてください! マリア先輩も!」
「は、はいっ?」
そのあまりの勢いに、僕と委員長はほとんど同時に背筋をのばしていた。
悩んでいても、徹子ちゃんはやはり徹子ちゃんだったか。そんなことを考え、僕はつい苦笑してしまった。