第五話 四月九日(月)早朝 1
ちいさく声をあげて、ベッドから飛び起きた。
なにか、ひどい夢をみたような気がする。グロテスクというか、スプラッタな感じだったように思うが、よくおぼえていない。
時計を確認すると、朝の六時二十分だった。ちょうど、アラームの鳴る十分まえである。
結局、一時間半ぐらいしか眠れなかったわけか。僕はそうひとりごちた。
枕元に手をのばし、まずは目覚ましのスイッチをきった。それから、寝衣をとき、タオルで乱暴に体をぬぐった。寝汗がひどかったのである。
とにかく、悪い夢をみたのだ。どんな内容だったか、思いだせないのがいっそういやらしい。
どうにもすっきりしないので、半裸のまま、ストレッチのまねごとをしてみた。手脚の関節を曲げたりのばしたりして、筋肉や腱を刺激するのである。
体をうごかしながら、しかし、頭ではちがうことを考えはじめていた。
昨日、幸に告白したことである。僕は、それを後悔してしまっていたのだ。
といっても、彼女に気持ちをつたえたこと自体には、一点の曇りも感じていない。それは、どうせ、いつかは通らなければならない道だった。
ただ、タイミングが悪すぎたのだ。僕はアホか。どうして、このことに考えがいたらなかったのだろう。
つまり、一時間半しか眠れなかったことの原因が、幸への告白だったのである。ベッドのなかで、僕はずっと、彼女とのやりとりを反芻していたのだ。
会話の一言一句が脳裏にちらついて、ひどく目がさえてしまった。午前一時には電気を消したのに、必死に努力して、ようやく意識を落とすことができたのは、四時から五時ごろだった。
いわゆる『草木も眠る丑三つどき』というのが午前二時ごろだそうだが、それをとっくにすぎ、明け方といっていい時間帯だったわけだ。
いや、それでも、僕はいい。一日ぐらい寝なくても死にはしない。問題は幸のほうである。
告白をしてふられたとはいえ、僕は彼女に、すくなくとも嫌われてはいないと思っている。なにしろ、たとえ男としては見てもらうことができなくても、他人としては最上級の、家族に準ずる扱いをされているのだ。
そして、そういう存在から、恋人としての交際を申しこまれたとなれば、むこうにも、多少なりと感慨のようなものがあるはずと考えるのも、けっしてこちらのうぬぼれというわけではないだろう。
すると、どういうことになるか。僕がそうだったように、幸も物思いにふけるあまり、眠れなくなってしまった可能性が出てきてしまうのである。
幸の体は、僕をふくめた一般的な同年代の少年少女のそれとはちがい、むりがきかない。きちんと体調をととのえていても、ときには倒れることもある。
いわんや、寝不足の状態をやである。大事をとって、今日の始業式を欠席するというのも、充分にありえてしまいそうだ。
もちろん、始業式そのものは、そこまで重視するようなものでもない。体のぐあいが悪くなるぐらいなら、どんどん休めばよろしい。
だが、式のまえに、毎年恒例の行事がひとつある。幸は、そちらのほうを、とても楽しみにしているのだ。僕のせいで参加できないなどということになったら、心ぐるしいではないか。
ああ、僕の告白が、幸にとって、とるにたらないどうでもいいことでありますように。ううむ、だけど、それはそれで悲しいよなあ。
――そんなふうに、とりとめもなく思考の海につかりながら、ストレッチもどきの体操をしているうちに、十分ほどもたったころのことだった。
ふいに、机のうえの携帯が振動した。
はて? まだ朝もはやいのに、いったいだれだろう。とりあえず、僕は携帯を手にとると、ディスプレイを確認してみた。
宇佐美幸という文字列が目にはいった。
とっさに、僕は通話ボタンを押した。もしもしという呼びかけが聞こえてきた。幸の声である。いつもとかわらないようだが……。
「はい、もしもし。おはよう、幸。どうしたの? こんな時間に」
「おはよっす。もしかして、まだ寝てた? ……用件は、今日のアレだよ。ほら、昨日はいろいろあって、確認してなかったからさ。まさか、忘れてないよなぁ?」
しっかりとした口調だった。どうやら幸は、告白されようが関係なく、きちんと眠ることができていたようだ。さきほどからあれこれと悩んでいたのは、すべて僕の杞憂だったというわけか。
すこしせつない気もするが、なに、そんなのは些細なことだ。
「アレ? アレというと?」
思うところもあり、あえてしらないふりをしてみた。
「あんた、ほんとに忘れてたん? 春休みまえに、いっしょに登録したっしょ。毎年恒例のアレ」
あきれたように、幸がいった。
「春休みまえ……毎年恒例……あーはいはい。アレね。思いだした」
「つうか、公平ってさ。ガッコの成績はいいのに、なんでそんなに忘れっぽいのん? アタシ、あんたが社会にでてちゃんとやっていけるのか、すっごい心配なんだけど。マジで」
それを皮切りに、しばらくのあいだ小言がつづいた。朝からよくしゃべるものである。
元気そうだね、幸。安心したよ。でも、やっぱり、僕の告白なんてとるにたらないできごとだったんだね。
な、泣かないぞ。
「……にしても、でるまえに確認しといてよかったよぉ。あ、これ、昨日おんぶしてもらったお礼ね」
「くうっ、しまった。もっとなにか、お願いしておけばよかった」
まあ、こんなものだろう。
ひとになにかしてもらったらお礼をというのは、幸にとってとても大切なことだ。相手が僕の場合、よく予定や教科書などをうっかり忘れるので、そういうときに教えてもらったり、貸してもらったりをお礼にすることが多かった。
「んじゃ、いつもの場所で。遅れんなよぉ?」
言いおわると、幸はさっさと電話をきってしまった。
思わず、僕は苦笑してしまった。ただし、つきかけたため息は、そのまま飲みこむことにした。
ほんとうに、いつもどおりとはねえ。
もっとも、そのほうがいいのかもしれない。幸への気持ちは、あきらめるしかないわけだし、むこうが以前とかわらない態度をとってくれるのなら、こちらもやりやすいではないか。