第四十二話 六月十一日(月)昼休み 幸のアルバム 2
ひとしきり盛りあがったところで、ようやく幸はページをめくりはじめた。
最初が赤ちゃん――といっても彼女本人ではないが――だったわりに、小学校以前の写真は一枚もなかった。
ただし、写真を撮らなかったわけではない。ほかのアルバムに保管されているだけである。ここにあるのは、厳選されたものばかりなのだ。
「あ、これも廣井くん?」
委員長が指さした写真は、幼い僕が、幸といっしょにならんでたっているものだった。ふたりとも、体格にくらべると、おおきなランドセルを背負っている。背景には、わが廣井家がうつりこんでいた。
「えっと、……ああ、公平が小学校に入学した日の写真だね。たしか、こんときは、アタシがガッコに案内してやるっていってんのに『ひとりでいけるんだい』とかいって、けっきょく迷子になったんだよ」
やはり、この展開かと思った。なんで幸は、僕の失敗ばかりをよくおぼえているのだろう。
「迷子になんかなってないってば。ちょっと道をうろ覚えで、時間がかかっただけだよ」
「そういうのを迷子っつうの」
弁解の余地をあたえず、そのまま幸はページをめくってしまった。
つぎのページも、そのつぎも、どの写真のなかでも、幸は天真爛漫な笑顔をうかべていた。なにも知らないひとが見たら、元気いっぱいな女の子の記録かと勘違いされそうなほどである。
実際には、子供のころの幸はいつも体調が不安定で、いくどとなく入退院をくりかえしていた。
「このひとは、宇佐美さんのおじいさんですか?」
堤さんが指摘した写真には、痩せた老人がうつっていた。幸を肩車している。その足元には、ちいさな僕がしゃがみこんでいて、ふたりの様子を指をくわえながらながめていた。
「や、このひとは公平のおじいちゃんだよ。一平じいじ。むかし、よく遊んでもらったんだ」
幸が、すこし遠い目をした。祖父は当時、六歳だった僕と七歳だった彼女を、おなじようにかわいがってくれていたのである。ふたりとも、まだ子供で、彼の肩車が大好きだったのだ。
おそらく、この写真は、僕が幸に順番をゆずったときのものだ。指をくわえているところが、なんとも情けなかった。
「あっ!」
「え……ええっ?」
さらにページがめくられたところで、委員長と堤さんが、同時に素っ頓狂な声をあげた。
はて? こんどはどうしたのだろう。
ふたたびアルバムを確認したところで、僕はあいた口がふさがらなくなった。
写真にうつっていたのは、情熱的に抱きあうちいさな男女の姿だった。
小学校中学年のころの、僕と幸である。まるで恋愛映画のクライマックスのように、おたがいの背中に腕をまわし、目をとじて、くちびるを重ねあっていた。
「こ、こ、こ」
眼鏡をきらりと光らせつつ、委員長がいった。
「これ、舌とかはいってます?」
なんという質問をなさいますか、委員長。
「んー……、どうだっけ?」
小首をかしげつつ、幸がこちらに水をむけてきた。入れていないしはいっていない。というか、そんなこと僕に聞くないわせるな。
「あはは……。さあ、どうだったかな」
とりあえず、笑ってごまかした。
まったく、幸はなにを考えているのかねえ。こんな写真、他人に見せて恥ずかしくないのかな。
「あの、あのっ! ふ、ふたりはもしかして、おつきあいしているんですかっ?」
くだんの写真を目にした瞬間から、完全に固まっていた堤さんが、急に勢いこんでたずねてきた。
「男女交際みたいな感じじゃつきあってないよ? アタシ、家族にキスとか、ふつうにするんだ。つっても、公平とは血はつながっちゃいないけど、ま、似たようなもんだし。……で、これは最初にしたときの写真だったかな」
ぜんぜんなんでもないことであるかのように、幸がいった。『血はつながっていないけど、家族のようなもの』という言葉が痛い。やれやれ、僕にとっては、好きなひととするファーストキスだったのに、あんまりだぜ。
「で、でも、ということは、けっこう頻繁にその、キスしてるんですか? 最近も?」
ふつうにキスをするという返事に、さきほどとはちがう意味で驚いたらしく、堤さんが弾かれたようにこちらを見てきた。
そんなに、僕が女の子とキスしてたらおかしいかな。ちぇ。
「いっしょに暮らしてるわけじゃないから、そこまで頻繁じゃないけどね。ほんのときどき」
ぱちりと片目をとじて、幸が悪戯っぽい笑みをうかべた。委員長が、かすかにため息をついた。それから、憐れみに満ちたような視線をこちらにおくってきた。
わかってもらえましたか、委員長。僕の悲しみ、せつなさが。
「けど、うさっち、なんでこんな写真がのこってるの? 最初のキスの記念ってことは、なにかきっかけがあったんでしょ?」
「きっかけ? ……うーんと、なんだったかな。たしか、公平に『僕とキスしてくれ。してくれなきゃ死んでやるっ』とか、泣きながらいわれて」
その言葉に、委員長の目が点になった。堤さんが、心の底から意外そうな表情で、僕と幸を交互に見比べている。
ええい、なんということをいうのだ。たしかに、泣きながらそういうことをいったのは事実である。ウソではない。だが、いくらなんでも、もうちょっとほかに言いかたというものがあるのではないか。
「廣井くんって、やるときはやるのね」
あきれたように、委員長がいった。ああ、もう。絶対に誤解されたぞ、これ。どうするんだよ、いったい。