第四十一話 六月十一日(月)昼休み 幸のアルバム 1
声がした。
ごくちいさな声である。喧騒のなかでは、かき消されてしまうていどのおおきさのもの。
だが、僕の耳は特別製だ。けっして聞き逃したりはしない。
すぐに、声の方向にふりかえった。
幸と目があった。すこしはなれた席で、仔犬をよぶように手招きをしている。どうやら、自分のところに来いというジェスチャーらしい。
昼休みである。教室では、そこかしこで机がよせられている。幸は委員長や堤さんと三人のグループだった。かくいう僕も、ゴーや黒田、そのほか数名の男子たちといっしょで、ちょうど弁当を食べおわったばかりのところだった。
呼ばれたのは僕だけのようなので、とりあえず、みんなに断ってから、幸たちの席にむかうことにした。
黒田が、笑顔でやっかみの言葉を口にした。そのほかの男子たちも、だいたい似たような感じである。ただ、ゴーだけは、なんとも微妙な表情をうかべていた。先日のことを、いまだに気にしているのかもしれない。
「やあ、呼んだ?」
僕が声をかけると、幸のうしろで委員長と堤さんが顔を見あわせた。なにか、唖然としているような感じもする。はて、どうしたのだろう?
「あんなちいさな声で、よく聞えましたねえ」
委員長が、すこし呆れたようにいった。堤さんが、となりでこくこくとうなずいている。幸は、みょうに機嫌がよさそうだった。
「ああ、長い付き合いだからね。幸の声は多少さわがしくても、自然と聞きとれるんだ。……で、なに?」
「いやー、こういうものを持ってきてるんだけどさぁ。公平がいたほうがおもしろいかなと思って」
いって、幸はなにかの品物を僕の目のまえにかざしてきた。
その品物には、見覚えがあった。幸の、個人用アルバムである。年にいちど、宇佐美家の大掃除を手伝いにいくと、かならずどこからともなくあらわれて、作業を妨害しはじめるふしぎな書物だった。
あらためて、うしろのふたりに目をむけると、彼女たちの手元にも、大なり小なり似たようなものが置いてあった。
ふむ、なるほど。僕は納得した。
彼女たち三人は、ふだんから昼食をともにしたり、休日にいっしょに遊びにいったりする間柄である。おかげで、見ためにはいわゆる仲良しトリオといった感じなのだが、実際には、まだ知りあってからの日が浅かった。
出会った日、すなわち四月の始業式当日から数えても、いまが六月の上旬なので、二ヶ月ちょいしかたっていないのである。
人間関係において、おたがいの距離をちぢめるには、過去の打ちあけ話が一番である。この三人は、自分たちの子供のころの写真を見せあうことで、知りあうまえの時間を埋めようとしているのだろう。
しかし、ひとつ疑問がのこった。僕はいったいなぜ、この場に呼ばれたのだろうか。
「えっと、幸はいいとして、ほかのふたりは、僕がいてもいいの?」
「だいじょうぶですよ。こころも、廣井さんから見た宇佐美さんの子供のころの話とか、聞きたいです」
答えたのは、堤さんだった。
堤さんは、男女とわず、だれが相手でも苗字にさん付けでよんでいる。言葉遣いも、丁寧語が主体である。ただし、発音が少々舌ったらずで、たとえば『宇佐美さん』が『うしゃみしゃん』と聞こえてしまうほどであるため、あまりよそよそしい感じはしなかった。
新学期がはじまって以来、いろいろなことがあった。生徒会役員選挙や中間テスト、衣替えなども、つつがなくおわっている。しかし、クラスメイトのなかに一体感のようなものが生まれつつあるなか、堤さんだけは、男子から距離を置かれるようになってしまっていた。
といっても、べつに嫌われているわけではなかった。
直接の原因は、堤さんが、クラスメイトとの親睦を深めるために、自作のクッキーを配ってまわったときに起こった事件である。たまたま、贈り物をもらいそびれていたゴーが、あとからそれをねだりにきたのだ。
ゴーの態度は、気安いだけで、ごく普通のものだったように、僕には思えた。ところが、堤さんは、いきなり話しかけられたのと、相手の声がおおきかったことに驚いて、なんと泣きだしてしまったのである。
おり悪しく、授業がはじまる直前の時間だったため、教室にはクラスメイト全員が戻ってきていた。みんながその現場を目撃してしまった。
おかげで、堤さんが男を苦手としているらしいことが、クラスの男子の共通認識になってしまったというわけだ。
もともと、堤さんは、むかいあうと緊張してしまうような美人である。それが、男性恐怖症ともなれば、クラスの男子たち――あのゴーですら例外でなく――が気後れしてしまうのも、ある意味、当然のことだった。
なお、委員長に聞いたところによると、さいわいなことに、堤さんは女子からは好感をもたれているらしい。性格がすなおで親切、また、モデルのようなクールな外見とは裏腹に、どこかふわふわとした雰囲気をかもしだしており、そのギャップがかわいいのだという。
なんにせよ、せっかく男女共学の学校にかよっているのである。堤さんも、女子にそうするように、男子と普通にせっすることができるようになってもらえたらいい。それに、転校生がクラスに溶けこめるようにするのは、学級委員としての仕事のひとつでもある。そう思い、最近の僕は、つとめて彼女に話しかけるようにしていた。
いちおう、僕は幸や委員長と友人でもある。その点で、むこうもやりやすかったらしく、最近は、一対一でもそこそこの会話ぐらいならできるようになってきた。努力の甲斐があったというものである。
「んじゃ、アタシからね」
おもむろに、幸がアルバムの表紙をひらいた。みんなが見やすいように、席のまんなかにそれを置いた。
正直なところ、僕にとってはいまさらなものだった。
なにしろ、子供時代の幸の姿は、とっくに心に焼きついてしまっているのである。もちろん、写真そのものも、幾度となく見かえしており、内容を知悉しているといっていい。
だから、僕はむしろ、委員長や堤さんの表情に注目していた。
きっと、びっくりするぞ。あんまりかわいくって。
ふたりの反応を想像して、僕は頬がゆるんでいくのを感じた。ちょうど、そのときだった。
「あっ!」
「え……ええっ?」
突然、委員長と堤さんが素っ頓狂な声をあげた。かなり驚いているようだが、なにかおかしい。想像していたのと、反応がちがいすぎる。いったいどうしたのだろう。
状況を把握すべく、僕は身を乗りだして、ひろげられたページの写真を確認してみた。
写真は、フルヌードでタライのお湯につかる新生児のものだった。行水のさなか、元気いっぱいに泣きわめいているといった図である。おおきく口をあけ、ちいさな手を懸命に握りしめているところが、なんともほほえましい。赤ちゃんとはよくいったもので、顔も体も手足も真っ赤だった。
ふいに、委員長が写真から顔をあげて、僕のほうを見つめてきた。ほんのりと、頬を朱にそめている。彼女は色白なので、赤面するとすぐにわかってしまうのである。
しばらくそうして固まっていたが、やがて委員長は写真と僕を交互に見比べはじめた。ちらり、ちらりという感じだった。
あの、というか委員長? 視線が泳いでいますよ?
「た、た、た」
こんどは堤さんが、食いいるように写真を見つめながら、つぶやくような声をもらした。
「タラコみたい」
いやいや、堤さん。いくら料理が趣味とはいえ、いくら写真の赤ちゃんに、ちいさなタラコのような突起物がついているとはいえ、その比喩はいかがなものでしょうか。せめて、もっとこう、象さんとかですね。
視線を幸のほうにむけると、彼女はニヤニヤとした笑みをうかべているところだった。自分がなんのために呼ばれたのか、僕はそれでようやく理解した。
「ひ、廣井くん、この赤ちゃんって、もしかして」
必死に笑いを噛み殺しているような表情で、委員長が僕に聞いてきた。彼女の言葉に反応したのか、堤さんも顔をあげた。そうして、無言のままこちらのほうをじっくりまじまじとながめたあと、ふたたび写真に目をおとした。
うおっ、なんだかすごく恥ずかしいぞ。
「あはは……。まえに、写真をとりかえっこしたことがあってね」
「と、とってもかわいらしいお姿、う……くふ。ごめんなさい。目のまえに、ほ、本人がいると思うと、つい」
口を押さえ、委員長が顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。ぷるぷると、肩が震えている。僕はなんとも言いようがなく、ただもじもじするしかなかった。