第四十話 五月七日(月)夜 3
食後は、コーヒーを飲んだり、雑談をしたりして、まったりとすごした。そうこうしていうるちに、ゴーの部活がおわる時間になったので、携帯にメールをいれた。
徹子ちゃんを、家まで送らせるためだった。
ゴーは、すぐにやってきた。なんだかんだいっても、妹を大切にする男である。
「よう、三人でメシとは、めずらしいな」
「ああ、今日はうちに母さんがいなくてさ。父さんも遅いから、家に帰ってもだれもいないところだったんだ。ひとりで食べても味気ないんで、つきあってもらってたってわけ」
本来の議題は、ふせることにした。
「……しっかし、腹へったなあ。おれもなんか食っていきたいから、ちっとまっててくれないか?」
ラグビーのような激しい部活のあとなら、腹もすくだろう。僕も幸も、もちろん徹子ちゃんにも、異存はなかった。
「悪いな。……あっ、すみません、ウェイトレスさん。えっと、サービスタイムのディナーセットを」
ふつうに夕食をすませるつもりかよ。いや、こいつなら、帰宅ごに、もう一食いったとしてもおかしくはなさそうだな。
料理が届くと、ゴーはさっさとたいらげてしまった。食べかたが綺麗なわりに、やけに早い。
「待たせたな。じゃあ、帰ろうぜ」
店をでると、まるでそれが当然とでも言いそうな顔で、徹子ちゃんが兄の腕にしがみついた。ゴーは、とくに嫌がるそぶりは見せなかった。
ただし、あくまでも、見せなかっただけだった。
じつは、ゴー自身、徹子ちゃんのこういうところを、あまり歓迎していないのである。むしろ、苦々しく思っているといったほうが適切だった。
聞いたところによると、中等部のころ、いちど真剣に注意したことがあったらしい。ところが、その結果、徹子ちゃんは本気で泣きだし、三日ほど、自分の部屋に閉じこもってしまった。
それだけならまだしも、ショックだったのか、途中から高熱をはっしてしまい、一日だけとはいえ、学校を休むところまでいってしまったのだという。
以来、ゴーは徹子ちゃんに、ほんとうに強いことが、なにもいえなくなってしまったそうだ。
まったく、兄のことさえ絡まなければ、まじめでしっかり者のいい子なのに。
なんにせよ、いまは帰り道である。ゴーたちも、もう行ってしまったし、僕は幸を、家まで送っていかなければならない。
「さあ、姫。お屋敷まで参りましょうか。わたくしめが夜道の危険からお守りいたしましょうぞ」
「なにそれ、執事?」
いちおう、騎士のつもりだったんだけどなあ。幸は、苦笑したような表情をうかべていた。
そのご、僕と幸は、あまりしゃべらなかった。疲れているかもしれないと思って、こちらが遠慮したのである。すくなくとも、むこうから話題をふってくることはなかった。
歩きながら、今日あったことを振りかえってみた。
堤さんと、はじめて挨拶以上の会話ができた。委員長のいつもとちがう面が見れた。幸とは、こちらから手をつないだ。内容はともかく、徹子ちゃんの悩みを聞いてあげられた。
つまり、いいぐあいに友人、とくに女の子たちと親交を深めることができたということだ。
もちろん、あすかにかんしてもそうである。わからないことは多いが、それでも今日は、喜ばせてあげることができた気がする。
なかなか、いい日だったな。
――と、そのとき、どこからともなく、女性の歌声が聞こえてきた。
張りのある太い声。ギターの音もする。これは、ストリート・ミュージシャンだろうか。
「へえ、いい声……。なあ、公平、ちょっと聞いていかない?」
いって、幸が僕の手をひっぱった。
ストリート・ミュージシャンは、わき道にはいってすぐのところにいた。
ひょろりと背の高い女性である。大学生ぐらいの年齢だろうか、肩までの茶髪で、黒っぽい革のジャンパーと、色の濃いジーンズという格好だった。
ジャンパーのまえはあけてあり、白地に猫科動物のモノクロ写真がプリントされたTシャツを着こんでいるのが目にはいった。
ちょうど間奏にはいったらしく、彼女はアコースティック・ギターをかき鳴らしはじめた。
ギターはかじったていどしか知らないが、ずいぶんと変則的なチューニングをしているようだった。弦を押さえる手のかたちが、覚えているものとちがう。長い指を器用に動かしていて、見た目が華やかだし、響きもかなり独特だった。
よく見たら、弦の数も一本すくなかった。弾いているうちに切れたというわけでもなさそうである。はじめから、そのように調弦しているのだろう。
まわりには、僕たちをふくめ、十人に満たないていどのギャラリーがいた。しかし、彼女がそれを意に介しているとは思えなかった。まるで、天に届かせようとしているかのような演奏である。
間奏がおわり、歌にもどっても、それはかわらなかった。そもそも、ギャラリーには一瞥すらくれていないのだ。
のびやかな声によってつむがれる歌詞は、恋愛の体裁をとっているが、じつはもっと普遍的な愛についてのものである気がした。おそらく、これは彼女のオリジナルの楽曲なのだろう。音や言葉のひとつひとつが、歌い手になじんでいるように感じられた。
かなり、聞きごたえのある曲だった。
しばらく聞いているうちに、やがて演奏がやんだ。曲がおわったらしい。
すると、彼女は一礼だけして、そのままギターを片手に立ち去ってしまった。あっというまだった。
ええと、これは……。
いい曲ではあったが、なにか釈然としなかった。
数はすくないながら、聞いていた人間がここにいるのである。それなのに、まるで歌いたいからうたい、気がすんだからやめたというような態度だった。
あのような態度は、路上でパフォーマンスをする人間として、どうなのだろうか。
「無愛想なひとだったね。歌はうまかったけど」
「ま、いいんじゃない? プロが金もらってあんなだったら問題だけど、素人なんだし。ただでいい歌が聞けたと思えば」
前向きな解釈である。じつに幸らしかった。
そうだな。一日のおわりに、幸とすてきな音楽を聞いたのだ。それでいい。やはり今日は、いい日だったのだ。
<第二章・了>