第三十四話 五月七日(月)黄昏 3
「公平? どうしたん、ひとりで」
いい感じに歩きまわり、そろそろ公園にもどろうかと考えはじめた矢先、だれかに声をかけられた。
「あれ、幸? それに、徹子ちゃんも」
見ると、ふたりがならんで立っていた。
はて? 幸は、ほかのクラスの女子と帰ったはずなのに、なんでこんな場所に、しかも徹子ちゃんといっしょにいるのだろう。
――と、ふいに、となりからなにか声が聞こえたような気がした。
つぎの瞬間には、ずっと握っていたはずの冷たい手の感触が、いきなりなくなっていた。
おやと疑問に感じたときには、すでにあすかは幸に飛びついていた。
あすかが、幸を抱きしめている。
……は?
いや、ちょっとまて。
なんだこれは。
いったい、なにがおこった。
「おい、あすか……」
思わず名前を呼びかけそうになり、とっさに、僕は口をつぐんだ。
さきほど、幸は『どうしたん、ひとりで』といった。つまり、彼女にはあすかの姿が見えてもいなければ、存在を感じてもいないのだ。
案の定、あすかにのしかかられているというのに、幸はおどろいた様子どころか、人間ひとりぶんの重量を受けとめているそぶりすら見せなかった。
「ん? あす? あしたなんかあったっけ?」
「え? あ、いや、その、なんというか……。そう、今日あすは母さんが家にいないから、夕食をそとで済ませようかと思って」
とりあえず、ごまかしてみた。といっても、商店街で夕食をとるつもりだったのは、ほんとうのことである。
「幸さん、ゆきさぁん……」
うわごとのように、あすかがなにかつぶやいている。発音がひどく不明瞭で、いっていることがよく聞きとれない。ただ、ときどき幸の名を呼んでいるらしいことだけはわかった。
その発音の不明瞭さが、涙声特有のものであることは、すぐに気づいた。大粒のしずくが、あすかの両目からつぎつぎとあふれだしているのが見えたのである。
まさに、それは号泣とでもいうべき状態だった。恥も外聞もないといった感じで、眼球からありったけの水分をしぼりだしているとすら思えるほどだった。
僕はといえば、あっけにとられていた。
なぜ、あすかが急にこんなふうになってしまったのか、まったく理由がわからなかったのだ。
いちおう、きっかけはどう考えても幸に会ったことだし、また、悲しいのではなく、うれしくて泣いているのだろうことも、なんとなく理解はできた。しかし、おそらく裏になにか事情があるのだろうとは思うものの、それがなんなのか、想像もつかなかった。
もちろん、かってに空想することは可能である。たとえば、じつは幸とあすかはかつて死にわかれた親友同士だったとか。
正直なところ、僕が、幸のそういうエピソードを知らないなどありえないと思うが、決めつけはよくないのでひとまず置いておこう。
だが、そんな空想には、根拠がまったくない。つまり、ここでなにをいっても、妄想の域をでないということである。
マジで、どういうことなのかねえ。気になるけど、でも教えてくれないんだろうなあ。
「アタシの顔に、ゴミでもついてる?」
ぼんやりあすかの姿をながめていると、こちらの視線に気づいたのか、いぶかしむように幸がいった。幻覚とはいえ、涙とか鼻水とかがついていそうな気がしたが、さすがにそんなことはいえなかった。
「べ、べつに……あ、そうだ。幸、さむくない?」
「さむい? なにそれ。最近は、むしろあったかいほうだと思うけど?」
ふむ。やはり、幸はあすかのことをまるで認識していないようだな。
だけど、こまったぞ。あすかをなぐさめてやろうにも、幸たちの目のまえなのだ。へたなことをすれば怪しまれてしまう。自分だけにしか見えない相手というのは、じつに不便なものだ。
「いまから、わたしたち、ご飯なんです。よかったら、公平さんもごいっしょしませんか?」
徹子ちゃんが、提案してくれた。
これは、ありがたいと思った。とりあえず、幸と行動をともにできるのなら、あすかも喜ぶにちがいない。
「ぜひ、そうさせてほしいな。幸も、かまわない?」
「かまわないけど……でも、いいんかぁ? てっちゃん、なんかアタシにいいたいことがあったんじゃないん?」
確認するような言いかたで、幸が徹子ちゃんにたずねた。
この口ぶりからすると、たぶん幸は、徹子ちゃんの悩み相談のために呼びだされたのだろう。友だちにひっぱりだことは、彼女も大変だ。あとに疲れをのこさなきゃいいけど。
「わたしは、かまわないですよ。というか、公平さんにも聞いてほしいです。タケくんのことだから」
ほう、ゴーのことか。なんだろうな。
ゴーのことについて、徹子ちゃんがあれこれと心配するのは、いまにはじまったことではない。だが、あらたまって相談されなければならないようなことは、すくなくとも僕には心当たりがなかった。
「ちょうど、ふたりでジョルノにいくとこだったんだわ。公平も、そこでいい?」
好都合だった。僕も、今日はジョルノで食べたい気分だったのだ。
「あったかい……あったかいよぉ、幸さん……」
それにしても、じつに奇妙な状況であるといわざるをえない。
なにしろ、僕たちがごくふつうに世間話をしているあいだにも、あすかは見るからに全力で幸に抱きつき、身も世もなく泣きじゃくっているのである。地面に膝をつき、相手の胸のあたりに顔をこすりつけていて、こちらのやりとりなど、どこふく風といった態度だった。
ちゃんと話を聞いていたのかな。これからジョルノにいくんだぞ。
心のなかで、そうつぶやきつつ、僕は幸に気づかれないように、あすかの頭を軽くこづいた。
「いたっ」
ようやく、あすかがこちらにふりかえった。と思ったら、くしゃくしゃの顔のまま、イーっと舌をだしたのだった。