第三十三話 五月七日(月)黄昏 2
ややあって、あすかはようやく顔をあげた。すこし恥ずかしそうな表情をうかべていたが、すぐに気を取りなおしたように立ちあがった。
「えっとね、今日は公平に、提案があったんだ」
「提案? どんな?」
彼女の提案とは、すぐ近くにある三ノ杜商店街を、ふたりで確認しにいくことだった。
「だって、このあたりで公平が女の子とデートする場所って、そこだけなんでしょ? お店とかを把握してなかったら、アドバイスのしようがないじゃない。さあ、時間がないからつべこべいわずに行くの!」
どうやら、提案というのは名ばかりで、実際には命令だったようである。まあ、そこはべつにいいのだが、わざわざ人間の多い場所に出て行きたがる幽霊とは、どんなものなのだろうか。
「いちおう、確認しとくけどさ。アタシの姿はほかのひとには見えないし、声も聞こえないんだからね。あんまりおおきな声で、話しかけてきたりしたらダメだよ。あと、こっちをじっと見るのもNG。そんなことしてたら、まわりのひとに変に思われちゃう」
それはたしかに、この子のいうとおりだな。とはいえ、小声で話すのはいいとしても、視線を外すのはやりにくいかもしれない。どうしても意識がむいてしまうだろうし、かえって挙動不審になりそうな気がする。
「けどさ、あすかが道を歩いていて、もしだれかにぶつかったとしたら、いったいどうなるの?」
気になったので、尋ねてみた。
「ん? とくに、なにも起こらないよ。アタシ、こっちの世界じゃ物理的に存在してないもん。そうね、さわってさえいれば、転ばせることぐらいならできなくもないけど……。その場合、相手はなにかにけっつまづいたとか、足がもつれたとか思うんじゃないかな。感触もないはずだから」
なるほどねえ。そんなことになるのか。
つかのま、その状況を想像していると、あすかは『公平、はやく』などといいながら、こちらの手をにぎってきた。
「こらこら、わかったってば」
なかば、引きずられるようにして歩きはじめた。公園の表口をめざして、ずんずんと突き進んでいく。
「まって、あすか。あっちの裏口からいったほうが早いよ」
「裏口?」
あすかが、立ちどまって小首をかしげた。右手の人差し指を、顎のあたりにそえていた。
じつは、大通りにつながる表口からのルートだと、商店街の入り口にいけるのだが、そのぶん遠回りになってしまうのである。
逆に、裏口からであれば、商店街の中ほどから奥寄りの位置に出ることになるが、移動時間を大幅に短縮できる。
今回は、雰囲気を味わうことが目的である。すこしでも長く、商店街を見せてやれるルートのほうがいいと思ったのだ。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、あっちね」
「だから、ひっぱるなって」
商店街には、すぐについた。裏口からなので、歩いて五分もかからなかった。
「わあ、ひとがいっぱい」
さすがに、この時間帯である。夕食の買い物をしているとおぼしき主婦や、帰宅途中の道草といった風体の学生、さらに、散歩にでもきたのか、老人や子供の姿もある。商店街は、まさにひとでごったがえすという形容そのままの様相を呈していた。
場所はそれほど離れていないのに、どうしてあちらの公園には、ひとがいないのだろう。なんとなく、そんなことを考えたりもした。
「ちょっと、公平。だめだよ。ほら、しゃんとして。背筋をのばすの」
ぼんやりしていたら、あすかに怒られてしまった。やれやれ、半分はおまえのせいなんだけどな。僕はつい苦笑してしまった。
なにしろ、さきほどからずっと、あすかがこちらの右腕にしがみついてきているのである。三十センチほどもある身長差のためか、ほとんどぶらさがられているような感覚だった。正直なところ、歩きにくいことこのうえなかった。
「でも、いいところだねえ……あっ、すてきなお店! 門のところに、花がいっぱい飾ってあって」
ふふっ、楽しそうにはしゃいでるなあ。
思わず頬がゆるむのを感じながら、しめされた方向に視線をおくると、カフェ・ジョルノが目にはいった。
幸やゴー、徹子ちゃんたちと、よく食事にくる店である。ここの料理は、値段のわりにとてもおいしいのだ。
しかも、安いだけでなく、きちんと値のはる高級メニューも存在していたりする。学生の身分なので、そちらのほうはめったに注文できないが、年になんどか、贅沢をしたくなったときには頼むこともあった。
僕が喫茶店に興味をもつようになったのは、じつはこの店がきっかけだったりする。
「まえに話したジョルノだよ。僕の行きつけの店。……そうだ、はいってみる?」
家に帰っても、今日は母さんがいないので、夕食は自分でなんとかしなければならない。ならば、せっかくあすかといっしょなのだし、ここで食べていったほうがいいだろう。
そう思ったのだが、あすかは渋い顔をした。
「はいってどうすんのよ。これから商店街を見てまわろうってときに」
しまった、僕はアホか。いつのまにか、幸と遊んでいるときのような気分になってしまっていたようだ。
あわてて、頭のなかで、のこり時間を確認してみた。
ええと、あすかが来てから、だいたい三十分ぐらいたっている。この子がこちらの世界にいられるタイムリミットは、およそ一時間ほどなので、もう半分はすぎたということだ。
商店街をぜんぶまわるのは、もとからむりなことである。しかし、ざっと案内するていどなら、その時間でも充分に可能だった。
食事は、あすかが帰ってからにしようと思った。