第三十二話 五月七日(月)黄昏 1
Y字路にさしかかった。
左は市街地、右は駅へとつづく道である。くわしくはしらないが、委員長の家は駅裏方面にあるはずなので、ここでお別れだった。
「じゃあ、このへんで。またあした」
「バイバイ、廣井くん」
上機嫌な様子で、委員長が立ち去っていく。僕は、その姿をぼんやりと見送っていた。
思ったより、遅くなってしまった。途中、立ち止まったぶんを計算から抜いてもである。やはり、会話がおおいに盛りあがったせいだろう。それだけ、楽しかったのだ。
機会があったら、また委員長といっしょに帰るのもいいかもしれない。むこうが、それを了承してくれたらの話だが。
やがて、委員長の姿が見えなくなったので、僕は来た道をもどることにした。
だれか、知りあいに見咎められたら、学校に忘れ物をとりに戻るところだとでも言うつもりだった。
約束の時間が近づいてきている。というより、このまま歩いていては遅刻してしまうかもしれない。
よし、走るとするか。僕は勢いをつけて地面を蹴った。
全力で駆けるつもりはなかった。制服姿だし、遅刻うんぬんは、単純にこちらの気分の問題である。むこうにとっては、僕がどこにいようと、あまり関係がないはずなのだ。たぶん、その時間になったら、こちらが風呂にはいっていようが、トイレにはいっていようが、おかまいなしだろう。
できれば、そんな場面では会いたくないものだな。それでは、まるでコントである。
西の空に、薄明かりがひろがっている。そのなかで、宵の明星がかがやいていた。
彼女があらわれるのは、毎週月曜日の夕方である。ただし、きまった時刻ではない。いまのように、日がしずみながらも、空に昼の痕跡がのこる微妙な時間帯。心のすきまに紛れこむように、どこからともなくやってくるのだ。
前回にくらべて、やや日没が遅くなりつつあるようだ。黙っていても、季節はめぐっていく。いまはまだいいが、夏になったら、帰宅がおかしな時間になる言いわけを考えなければならないだろう。
むしろ、僕の部屋で会うほうがいいのかな。でも、どうだろう。
考えているあいだに、公園にたどりついた。
走ったのは、ほんの数分である。ジョギングにもならない運動量だった。汗もかいていない。
周囲を見まわしたが、人影はなかった。どうやら、まにあったようである。とりあえず、僕はひと息ついた。
じつに静かな雰囲気だった。こういうふだんは賑やかであるはずの場所に、まったくひとけがないというのは、ひどくぶきみな感じを受けるものである。
とはいえ、もしだれかがこの場にいたとしたら、それはそれで面倒なことになってしまうため、ひとがいないことについて、安堵する気持ちもあった。
「こーへーぃ!」
ふいに、うしろのほうから声が聞こえてきた。
足音などはなかった。だが、駆けよってきているだろうことが、感覚でわかる。あすか。僕のかわいい友だち。そして、すでにこの世のものでない幽霊の少女。
僕はふりかえった。
がばあ!
うおっ? 一瞬、なにが起こったかわからなかった。本能的に、僕は体をひねっていた。
ぐるん、ぐるん。あすかの冷たい体が、僕にしがみついてくる。
回転。僕たちは、まわっている。こちらの体を軸にして、独楽のようにまわっている。
いきおいよく回転しているうちに、バランスが崩れ、そのままよこに倒れてしまった。
芝生のうえである。尻を打ったが、そんなに痛くはなかった。
「会いたかったぁ。公平、あいたかったよぉ」
いいながら、あすかが抱きついてきた。同時に、すりすりと頬ずりをしてきた。その髪を、僕は撫でてやった。
幽霊である彼女の姿や質感、重量などはすべて、僕の脳内にのみ存在する幻であるらしい。しかし、この手ざわり、この冷たさ。幻覚というには、あまりにもリアルだ。すげえな、人間の脳。
さてと。
落ちついたら、状況がつかめてきたぞ。
おそらく、あすかはすこし離れたところから勢いをつけて、こちらに飛びついてきたのだろう。俗にいうタックルというやつである。
そのままであれば、ふつうに押し倒されるところだったのを、思わず僕が体をねじったため、遠心力が発生し、ぐるぐると回転するということになってしまったわけだ。
年にいちどは再放送される名作アニメ映画に、こんなシーンがあったな。天空にうかぶ廃墟となった城で、抱きあって回転する少年と少女。まさか、自分が似たようなことをするとは、想像もしていなかったぜ。
「ねえ、公平、さむくなぁい? だいじょうぶ?」
甘えたような声で、そんなことをいいながら、あすかが僕の手をとってきた。
「このぐらい、だいじょうぶだよ。それより、あすかは一週間、元気だった?」
もちろん、まったく寒さを感じないわけではなかった。なにしろ、彼女の体は、僕にとっては氷のように冷たいのである。
だが、いかに比喩で『氷のように』などといってみても、ほんとうに温度が氷点下というわけではない。せいぜい、外気温とおなじていどだろう。したがって、覚悟を決めて気合をいれれば我慢できるし、五月ともなればだんだんとあたたかくなってくるので、そこまで辛いというほどでもなくなっているのだ。
ついでにいうと、会うたびに、いつもこうやって抱きついてくるので、学校をでるまえに、トイレに寄って二枚ほどよけいに着こんでおいた。備えあれば憂いなしである。
「元気って、アタシ、もう死んでるんだよ? つうか、それこっちのセリフだし」
顔をこちらの胸からはなして、あすかがいった。くちびるを、鳥のくちばしのように尖らせている。いわれてみれば、これは失言だったようだな。
「ああ、そうだったね、ごめん」
「べつに、いいけどね。……公平は、どんな一週間だった? 女の子と仲よくなれた?」
どうやら、あすかは本気で不機嫌になったわけではなかったようだ。ちょっとすねてみせたといったところか。
「先週は、ゴールデンウィークで、学校がなかったからねえ。女の子と仲よくってのは……」
話しながら、体をおこした。芝生に腰をおろしたまま、両足を投げだしてみた。それでも、あすかは僕にくっついたままだった。
いちおう、あすかは自身の享年を十五だといっていて、体格も、ちいさいながらも、その年齢の平均値におさまっている。すくなくとも、幸のように、齢十七にして小学生にまちがわれるというほどのことはない。
ところが、こうして抱きつかれていると、幼い子供にじゃれつかれているように感じることがあった。
「学校がなかったってねえ……。ダメだよ、そんな弱腰じゃ。休みの日にナンパに繰りだすとかしないと、チャンスなんてなかなかめぐってこないんだから」
やれやれ、怒られてしまったぜ。
正直なところ、女の子に怒られるというのは、なかなか悪くないものである。僕はつい、デレデレしてしまった。
「ごめんごめん。でも、ナンパってのも……。相手のことをよくしらないと、好きになるって感じにもならないし」
ゴーが、そういうことをよくやっているが、実際問題として、どうなのだろう。あいつはこれまでに、何人かの女と交際にこぎつけているが、僕の知るかぎりにおいては、いずれも短期間で自然消滅しているはずだ。やはり、友だちからはじめたほうが、成功率は高いのではないだろうか。
「もう! 好きになるとかそういうことのまえに、まずは話をしてみないとどうにもならないでしょ? ナンパとかも、知りあう可能性をひろげるためにするんだよ?」
ほう、そういうものなのか。たしかに、知りあいにならなければ、恋愛のしようもないのはそのとおりである。
だけど……うーん、やっぱり、なんだかちょっとなあ。
「あ、そうだ。今日は学校があったんだけど、わりといろいろあったかも」
とりあえず、話題をかえてみた。
「えっ、なになに? どんなことがあったの?」
案の定、あすかは食いついてきた。この子は、僕がふだんなにをしているかとか、学校でどんな感じなのかとか、そういうことをよく聞きたがるのである。
「女子に、お昼をごいっしょしませんかってさそわれたんだ。委員長なんだけどね」
「委員長さんって、小説かいてる子のことだよね? もうちょっとくわしく説明してくれない? どんな感じだか教えて」
興味津々というふうに、あすかが聞いてきた。
「どんな感じといわれても……」
「外見とか、性格とか。ねえ、髪型は?」
なるほど、そういうことをいえばいいのか。
「長い髪を、三つ編みにまとめてる。たいていうしろに一本だけど、日によっては左右の二本にすることもあるかな。そのせいで、おでこがひろく見えるから、頭のよさそうな印象があるね。まあ、実際に成績もいいけど。それと、本を読むのが好きで、いつも眼鏡をかけてる」
それを皮切りに、あすかはつぎつぎと細かいところを質問してきた。
「色白で、化粧はあんまりしていないっぽい。髪の毛は長いけど、量はすくないのかな。頭がちいさく見える。体型? 痩せ型だね。実際に見たことはないけど、鎖骨とかくっきりしてそう。あ、でも、胸はものすごくおおきいんだ。クラスの男子が、よく話題にだしてるほど」
しばらく説明をつづけるうちに、思いついたことがあったので、言ってみた。
「こんど、写真をもってこようか? そしたら、すぐに見てわかるよ」
「写真? や、アタシがしりたいのはそういうことじゃないよ?」
むう、なにか、みょうなことを言いだしたぞ? ならばなぜ、さきほどから、こうも根掘り葉掘り聞いてくるのだろう。
「アタシが知りたいのは、公平が、委員長さんのことをどんなふうに感じてるかってことなの。だって、写真を見せられても、相手のどこに印象があるかなんて、わかんないでしょ? それに」
ニヤリと笑って、あすかはつづけた。
「こういうふうに聞けば、公平は委員長さんのおっぱいのおおきさに深い関心があるんだってことも、すぐわかるもんね」
なんだそりゃ。そんなの、男だったら、ふつうはだれでも関心があるものだぞ。
「で、ほかには? 委員長さんとご飯たべただけ?」
「ほかは……。堤さんが自分で焼いたクッキーを持ってきてくれた。クラスのみんなにくばっていて、僕ももらったんだけど、すごくおいしかったな。お店の味みたいで。そうそう、さっきはいい忘れたけど、今日のお昼は委員長だけじゃなくて、彼女もいっしょだったんだ。あんまり話をしたことがなかったから、かなり緊張したなあ」
すると、あすかは二度ほど目をしばたたかせ、小首をかしげた。
「だれ?」
おや? まえに話したことがあったと思ったんだけどな。
「転校生だよ。堤こころさん。ものすごい美人で、始業式の日にゴスロリ服を着てきた」
「へえ、そんなのがいたんだ。美人って、その転校生に気でもあるの?」
まったく興味なさそうな反応だった。
「気があるっていうか、そりゃ、綺麗な女の子はいいと思うよ」
「でもねえ……。始業式にゴスロリ着てくるって、へぇんなのぉ」
そういって、あすかが笑いはじめた。
なにか、おかしな感じがした。
嘲笑というか、まるで馬鹿にしているかのような響きがあるのだ。この子がこんな笑いかたをしたことなど、いままでいちどもなかったのに、どうしたのだろう。
「変というか、ちょっとかわったところはあるかな。自分のことを『こころは』とか、名前で呼んでるし。……そういえば、今日は堤さんがらみで事件があったよ」
「事件? その転校生、なにか問題おこしたの?」
呆れたように、あすかがいった。べつに、問題を起こしたわけではない。むしろ、起こされた側である。
「いや、今日はゴーのやつが昼休み中に教室にいなくて、せっかくのクッキーをもらいそびれていたんだ。それで、よせばいいのにねだりにいったら、堤さんが泣きだしちゃって」
「はあ? なにそれ、なんでいきなり泣きだすわけ?」
あからさまに、あすかが顔をしかめた。道ばたで、犬の落しものを踏んづけてしまったときにするような、露骨な嫌悪の表情をうかべている。
おお、これはいったいどうしたことだろう。こちらの説明のしかたがわるかったのだろうか。堤さんについて、ずいぶんと悪い印象をあたえてしまったようだ。あわてて、僕はフォローにまわることにした。
「ち、ちが、そうじゃなくて、えっとほら、ゴーは、声がおおきいからさ。それで、怯えちゃったみたいなんだ。あいつは、見た目も筋骨隆々って感じで押しが強いし、堤さんも、三ノ杜学園に通うようになって、まだ一ヶ月だから、いろいろと心細かったんだと思う」
「えー、けどさあ、なんか、いい年して子供でもあるまいし、自分を名前でよんでんでしょ? そういうのってブリッコしてるか、さもなければ、どっかおかしいと思うよ」
おい、ちょっとまて。そこまでいうか? たかが自分を名前でよぶぐらいで、それはさすがに言いすぎだろう。
「ま、公平のまわりには幸さんとか、委員長さんとか、すてきな女の子がいっぱいいるんだから、むりしてそんなわけのわかんない転校生と仲よくなる必要はないよね。美人っていうけど、すこしぐらい顔がよくったって、中身がだめじゃ意味がないんだから」
嫌な感じのする笑みのまま、あすかがいった。
わけのわからない転校生ねえ。それに、むりして仲よくなろうとしたわけでもないんだけどな。どうも、釈然としない。
だいたい、こんな伝聞ぐらいで、どうしてあすかはここまで……。
「つうかさあ、ほかにはなにかないの? 今日のイベントって、委員長さんとその転校生のだけ?」
「へ? あ、ああ……。あとは、ホームルームのときに、進路アンケートがあったんだけど」
もうすこし、堤さんのフォローをしたかったのだが、強引に話題をかえられてしまった。ずいぶんひどい誤解がのこってしまったようだが、しかたない。なにしろ、あすかとこうして話をする時間には、限りがあるのだ。いずれ、あらためての機会を探すことにしよう。
「進路アンケートかあ……。ねえ、公平って、なにか将来の夢はある?」
「いちおうは……。喫茶店の、店主になってみたいかな。もっとも、いまのところ、そのためになにか努力をしているわけでもないんだけどね」
喫茶店と聞いたとたん、あすかは意外そうに声をあげた。
「ありゃ、公平ってそんなのやりたかったんだ。ほぉー。……でも、喫茶店の店長って、大変そう」
ふむ、この言いかたは、たぶん勘違いしているな。むりもないが。
「店長じゃなくて店主ね。前者は店舗の責任者で、雇われているひともふくまれるけど、後者は経営者のことだから。僕がやりたいのは、自営業なんだ。自宅と職場がくっついていて、いつも家族といっしょにいられるような。いまは喫茶店がいいと思ってるけど、むかしは八百屋とか魚屋にもなりたかったし」
なぜか、あすかが目をまるくした。はて? なんだか、やけに驚かれているような気がするのだが。
「いつも家族と……。公平って、そとでバリバリ働くのが好きなタイプかと思ってた……」
どういうイメージだ、それは? 自営業志望といって、納得されたことはあっても、意外がられた経験など皆無なんだけどな。
「ちいさなころから、家で働ける職につきたかったんだ。その……おとなになったら結婚したいと願っていたひとが、体が弱くってさ。家にずっといられれば、なにかあってもすぐそばで守ってあげられるんじゃないかと」
こちらの言葉に、あすかのまなざしが真剣なものへとかわった。
「幸さんのこと? それって」
「うん。……まあ、子供っぽくて、恥ずかしい理由だけどね。ちいさなころは、幸と将来、結婚するのがあたりまえだって、無邪気に信じこんでたからさ。とはいえ、もうふられちゃったし、いまから挽回できるかも疑わしい……あすか?」
ふと、あすかがうつむいていることに気づいた。
眉根をよせ、なにかをこらえているかのような顔をしている。
あきらかに、泣きそうな表情だった。
「だい……じょうぶ。だいじょうぶだよ。挽回できる。きっとできるさ。公平なら、だいじょうぶ」
声が震えていた。
いったい、どうしたのだろうかと思った。
いまのやりとりのどこに反応して、この子はこんなに感情を昂ぶらせているのだろう。
理由は、しかし聞いても教えてはくれない気がした。
始業式の日から数えて、今日をふくめてすでに五回、あすかとは会っている。だが、たったそれだけの回数なのにもかかわらず、この子にはこういうこと――なにかのきっかけで、きゅうに喜んだり、悲しんだり――が、なんどもあったのだ。
わけを聞くたびに、くわしいことは話せないと言われた。幽霊には制約や決まりごとのたぐいが多く、情報をもらすのは禁止されている。説明されたのは、ただそれだけだった。
さすがに、話せないというのを、むりに追求することはできない。そんなことをしても、彼女を困らせるだけである。詳細がわからないなら、とりあえずは自分にできることをするしかないのだ。
「ありがとう。がんばるよ」
だから、僕はあすかを抱きしめてやることにした。肩を引き寄せ、頭からかかえこんだ。そのまま、髪も撫でてみた。
黙って、あすかはされるままにしていた。