第三十話 五月七日(月)放課後 2
そのご、幸は用事があるとかで、さきに帰ってしまった。ほかのクラスの女子が、むかえに来たのである。
どうやら、あの子が、幸と昼食をともにしていたという友人だったらしい。雰囲気からさっするに、おそらく、これからなにか、悩みごとでも相談するつもりなのだろう。
まだ、それほど遅くはない時間帯だった。幸はいなくなってしまったが、教室には、委員長をはじめ、数名の学生がのこっている。僕も、すぐに帰ろうとは考えていなかった。
昼休み中は、堤さんがいたので遠慮していたが、委員長と話したいことがあったのである。
「ねえ、委員長。もうすこし居残りしない? 時間があったらでいいけど」
「え? べつにかまわないけど、どうかしたんですか?」
きょとんとしたような顔で、委員長が聞きかえしてきた。
放課後に、彼女とふたりで居残るのは、すこしまえまでは、それほどめずらしいことではなかった。だが、進級してからは、そういう機会を持てなかった気がする。
最近は、残ってのんびりするにしても、幸と三人になる場合がおおかったのだ。
なんとなく、僕は委員長とはじめて雑談をかわしたときのことを思いだした。ちょうど、一年まえの今頃のことである。
当時、僕と幸はクラスがちがい、また、委員会活動などもあって、帰宅の時間がばらけていた。帰りを待ちあわせても、たいていはどちらかが遅くなるため、こちらが早いときは、教室で授業の予復習をしたり、読書をしたりして暇をつぶしていた。
ところが、ある日、ほかの居残っているクラスメイトのなかに、ほとんど毎回、僕とおなじように本を読んだり、勉強したりしている女子がいることに気づいたのである。それが、委員長だった。
学級委員として、ペアを組んではいたものの、そのころの僕と彼女は、とくにしたしいというほどの間柄ではなかった。
ただ、役職をつうじた連帯感のようなものはあったし、どうしていつも残っているのかとか、どんな種類の本が好きなのだろうかとか、いろいろと興味があったので、勇気をだして話しかけてみることにしたのである。
迷惑ではと、思わないでもなかったが、さいわいなことに、委員長はこころよく応じてくれた。以来、幸が遅いときには、よく話し相手になってもらったものである。
「これだよ、これ」
鞄から紙束をだして、それを机のうえにおいた。
この紙束は、委員長の自作小説をプリントアウトしたものである。連休まえに、貸してもらっていたのだ。
「あっ、もう読んでくれたんだ。うれしい」
両手を自身の頬にそえ、すこし恥ずかしそうに、委員長がうつむいた。
「文章もわかりやすかったし、内容もおもしろかったよ。どうもありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。それで、いまからいろいろ聞いてもいい?」
もとより、こちらもそのつもりである。委員長は筆箱から蛍光ペンを取りだすと、さっそくとばかり紙束をめくっていった。
「ええと、とりあえず……どんな内容だか、わかりました?」
「アウトローの男が、死のまぎわにタイムスリップして、過去の自分と邂逅する話だよね?」
今回の委員長の作品は、禁酒法時代のアメリカを舞台とした悪漢小説のたぐいだった。
悪漢小説といっても、主人公はいわば正義の悪人という感じで、悪法が施行され、警察が汚職まみれでたよりにならないなか、街の治安を守ってくれる存在でもあった。
物語の前半は、おもに主人公の活躍、とりわけ街の住民に慕われている様子や、堅気の娘との清純な恋を中心にえがかれている。また、ところどころに回想シーンがさしはさまれ、なぜ彼がそのような無法者になってしまったかの顛末も、すこしずつ明かされていった。
まとめると、それはつぎのようなものである。
幼少期、主人公は身持ちの悪い母親と、乱暴な父親から虐待をうけて育ち、同世代の少年たちからも無視され、あるいはいじめられるという悲惨な境遇にあった。
だが、そんな夢も希望もない日々のなかで、彼はあるとき、ひとりのヤクザのような風体の男に声をかけられたのである。
男は、ことあるごとに主人公と関わりをもち、いつしか行動をともにするようになった。そうして彼に、世渡りの方法から、身を守るための体術、さらに弱いものをたすける義侠心まで、さまざまなことを教えこんでいった。
はっきりいって、男の教えかたはひどく手荒で、容赦のないものだった。しかし、主人公は音をあげなかった。これまでに経験してきた理不尽なだけの暴力とちがい、それらが自身の力になっていくことが実感できたからだった。
もちろん、相手が自分のためを思ってきびしく接しているということも、主人公にはよく理解できた。長年、血縁者にしいたげられて生きてきた彼にとって、男はようやく手にいれた家族とすら思えるものだった。
とはいえ、しょせんはヤクザと堅気、つかのまの師弟関係である。別れは、唐突にやってきた。ある日、師の男は、主人公に『俺のようにはなるな』と言いのこして、いずこかに去っていってしまったのである。
そして、相手の言葉とは裏腹に、主人公は師にあこがれ、あのようになりたいと願った。彼はやがてギャングの一員となり、長じて頭角をあらわすにいたった。
前半は、筋だけおえば、ありきたりな点が目につく。設定についても、ギャングものの小説としてはテンプレートのようなものであり、新味がない。だが、文章そのものに、委員長の個性が強くにじんでいた。
とくに、主人公の懊悩である。
むかしを思いだすたび、敵を打ち破るたび、主人公は自分があのときの男のようになれているか、自問自答をする。
現実の主人公は無法者であり、その手は血にそまっているといっていい。たとえ一面で正義といえるような理があったとしても、悪は悪なのだ。開き直ることはできない。
しかし、そうした煩悶のすえ、悔悟の念に打ち震えるたびに、主人公は、自身が助けた街の住民たちの笑顔によって救われるのである。
さて、連作短編のようなおもむきの前半がおわり、後半にはいると、物語はいっきに展開をはやめていく。陰謀が計画され、主人公が絶望的な戦いへと追いこまれてしまったのである。
地にふせ、水をくぐり、主人公は懸命にあがきつづける。だが、周到な罠が手のほどこしようもないほどに張りめぐらされ、ついに彼はマシンガンの掃射を全身にあびてしまう。
死の淵にたった主人公は、これまでの人生を、走馬灯を見るようにふりかえった。そのさい、彼は奇妙なことに気づいた。
過去の時間のなかに、現在の自分が存在しているかのような感覚があるのだ。しかも、怪我ひとつない状態で、のぞめば超人的な力を発揮することもできた。
疑問をいだきながら、主人公はふしぎな感覚のなかをさまよい歩き、ほどなくひとりの少年と出会う。
はじめ、主人公は、その少年を子供の物乞いかと思いかけた。しかし、相手の顔をよく見て、その考えはふきとんだ。
腐りかけた魚の死骸のように、濁った目をしてはいるものの、少年は、まぎれもなく幼い日の主人公だったのである。
はっと気づいて、自分の背格好などを確認し、彼はようやくこのふしぎな感覚の真相と、己のなすべきことに思いいたった。
目のまえの少年を鍛え、みちびくことができるのは、主人公以外にはありえない。ならば師、すなわち『あのときの男』とは、おとなになった彼自身にほかならないということだ。
いったい、これはなんなのか。いまわのきわに見るつごうのいい夢か、それともほんとうに奇跡がおこったのか。
わからないまま、主人公は自身の記憶にあるとおり、少年の師となるよう行動する。そして、そうしながらも、自分が『あのときの男』のようになれたかとの自問自答を重ねるのである。
重要なのは、主人公自身が、過去の自分である少年に対し、師として『あのときの男』とおなじように接しているのに、それを認めていない点である。
なぜなら、彼にとって、かつての師がだれだったかという問いかけは、なんの意味ももたないからだ。『あのときの男』とは、主人公の理想の存在であり、めざすべき高みそのものなのである。
結局、ひとときの師弟関係ののち、ふしぎな感覚の期限とでもいうべきものがおとずれた。主人公は、自分は師のようにはなりきれていないと感じ、少年に、俺のようにはなるなと言いのこして、この世から消えていった。その姿は、彼が子供ごころにあこがれた『あのときの男』そのものだった。
四百字詰め原稿用紙に換算して、三百枚ていどの長編である。伏線の回収も見事にはまり、なかなか感動的な作品だった。
とりわけ、痛みにみちた展開と、それにたいする救済というのは、いくつか読ませてもらった委員長の小説に共通する要素である。
語彙も豊富で、登場人物にも感情移入しやすい。彼女は同学年とは思えないほど読みごたえのある小説を書く。素人考えながら、どこかの賞に応募すれば、いいところまでいけるのではと思えるほどだった。
「ここなんですけど、だれのセリフだかわかりました?」
いいながら、委員長は文章のいちぶに印をつけた。
「ジョセフ爺さんだよね?」
しめされた部分のセリフは、前後に主語のない文がつづいていた。とはいえ、これなら文脈で充分に読みとれる。
「よかった、あってます。ではつぎ、ここのところ、主人公がなぜこんなひどいセリフをいったか、わかりました?」
「そこは……。主人公は無法者だし、あんまり関係が深くなりすぎると、危険だからってことかと解釈したけど」
まるで、国語のテストをしているかのような気分だった。だが、委員長にとって、この問答はとても重要であるようだった。
話がおもしろいかどうかは、感覚の問題という面がある。しかし、書いた内容を、読んだ人間が把握しているか否かは、それ以前のこと。委員長はそういう考えの持ち主であるらしく、このような質疑応答をとおして、自分の文章にわかりにくい点がないか確認し、修正をほどこすことを怠らないのである。
あるいは、彼女の小説によくでてくる自問自答をくりかえすキャラクターは、作者本人を投影したものなのかもしれない。委員長は、執拗なほどに自分の文章の粗をさがし、意味のとりにくいところがないかをたずねてくる。書いたことがきちんと伝わっているか、不安なのだろうか。
「あとは、この場面なんですけど、いきなりこんな超常現象がおこって、違和感はありませんでしたか?」
聞かれたのは、主人公が敵の凶弾にたおれ、直後に奇妙な時間感覚の世界に迷いこむくだりについてだった。たしかに、そこまでは悪漢の活躍をえがく小説だったものが、唐突にSFへと変貌をとげている。
「違和感かあ……。あるかないかでいえば、あるかな。タイムスリップなんて、作中でぜんぜん匂わされてなかったし」
「やっぱり……。どうしよう。そういうふしぎな現象がおこる事例とか、どこかに挿入しておいたほうがいいのかしら」
腕ぐみをして、委員長は考えこんでいる様子だった。ふだんはつるりとしている眉間に、しわがよっていた。
「いや、そこまでおかしいとは……。主人公も、これは夢なのかって言ってるし、ラストですこしふしぎなことがおこるのは、物語としては、べつに不自然なことじゃないと思うよ」
いまのままでも、充分に完成度のたかい作品である。むしろ、説明しすぎると、雰囲気がそこなわれるのではないだろうか。
「うーん……。わかりました。ちょっと考えてみますね。それで、つぎは」
しばらく、そのようなやりとりをつづけているうちに、ふと言葉がとぎれた。遠くから、かすかにカラスの鳴き声が聞こえてきている。
気がつくと、ほかの子たちは、もうみんな帰ってしまったようだ。いつのまにか、教室にはだれもいなくなっていた。
委員長が、ほうと息をついた。
しゃべりすぎて、口がかわいたのだろうか。彼女はちいさく舌をだすと、ぺろりとくちびるを舐めた。
「……また、つぎもお願いしますね。廣井くんって、ぜんぶわかってくれるから、読んでもらった甲斐があるわ」
つかのま、ぼんやりしかけた。しかし、すぐに気づいて、返事をした。
「ああ、委員長の小説はおもしろいから、大歓迎だよ。……ところで、けっこういいできだと思うけど、どこか公募とかにだしたりするつもりはないの?」
僕の質問に、委員長は頬を桜色にそめた。照れているのか、瞳がうるんでいる。
「わ、わたしなんて、まだ高校生だし」
年齢は、関係ないと思うけどなあ。逆に、若いほうが話題になるんじゃなかろうか。
もっとも、委員長にそうする意思がないのなら、無理強いしてもしかたないが。
「それより……。もうおそいし、あの、いっしょに帰りませんか?」
右手首の時計を確認しつつ、委員長がいった。なかなか、魅力的な提案だった。
「いっしょに? わかった、じゃあ途中まで送っていくよ。……あ、そうだ、ちょっとやることがあるから、さきに玄関に降りててくれるかな」
いって、僕はすぐに席をたった。委員長も、机のうえの筆記用具を片付けはじめた。