第三話 四月八日(日)夕方 2
幸が泣きやむのを、僕は待っていた。
ひとりぶんの距離をあけ、僕たちはベンチにならんで腰かけている。右隣で、幸がうつむいていた。
手袋をした両拳を、かたくにぎりしめているのが見えた。
「好きなひとがいるの?」
いくらか、落ちついてきた気がしたので、尋ねてみた。こちらの問いに、幸はかぶりをふり、それからハンカチで目元をぬぐった。
しばらくそうしていたが、やがて幸は顔をあげ、こちらに向き直ってきた。その表情は、いつもの気丈な彼女だと思えた。
「体のこと、気にしてる?」
この質問を、幸が好まないことはわかっていたが、せずにはいられなかった。
「ちがう」
いって、またしても幸は首をよこにふった。瞳に、とがめるような光がやどったような気がした。
「なら、なんで」
「幼なじみだから、かな」
しみじみとしたような口調だった。
「あんたの気持ちは……うん、すっごくうれしい。でもアタシ、公平のことを男として見てない。家族みたいに感じてる」
そこでいったん言葉をきり、ひと呼吸おいて、幸はつづけた。
「公平って、アタシの弟みたいな存在なんだわ」
弟かよ。思わず、声にだして言いそうになってしまった。
年下だからしかたないとはいえ、こんなちいさな女の子に弟あつかいされるのは、内心じくじたるものがある。とはいえ、僕のほうにも、幸のことはお姉ちゃんというふうに感じている部分があり、なんとも言い返しようがなかった。
「挨拶とか冗談で、あんたに抱きつくことはできる。キスすることだってできる。でも、つきあうとなったら、もっといろいろとあるわけでさ。……ぶっちゃけ、想像できないっつうか、しちゃいけないっつうか、キモチワルイっつうか」
そんな理由、ありかと思った。たしかに、いわんとすることは、僕にも理解できる。だが、いくら姉弟のような感じがあるとはいえ、ただの幼なじみでべつに家族というわけでもないのに、それはあんまりだ。
「あ、でも、ほんとにすっごくうれしかったから、選ばせてやるよ。二択問題。選択肢その一。ふたりは幼なじみ関係を解消して、こんご関わりをもたないようにする。選択肢その二。今日のことはわすれて、あしたから幼なじみを再開する。さあどっち? アタシはあんたの決めたほうに従うよ」
「二択の意味がないだろ……」
しらず、ため息をこぼしてしまっていた。
幼なじみ再開といっても、実際はちがっている。昨日までは、恋人になれたかもしれない可能性のあった幼なじみであり、あすからは、恋人になれないことが確定した幼なじみなのだ。はっきりいって、両者には月とすっぽんぐらいの差がある。
しかし、それでもなお、幸と赤の他人になることにくらべれば、雲と泥だった。
「さっき、抱きしめなきゃよかったなぁ。そしたら公平、きっと告白できなかったよ。あのときみたいに、泣きそうな顔をしてるから、ついやっちゃった。ここをしのげば、なにくわぬ顔で幼なじみをつづけられたのに」
例のお返し合戦のことを、幸は言いたいようだった。やはり、いまだに勘違いしておぼえているらしい。この場は流すとして、あとで訂正しておかないと。
「それはないよ。たしかに緊張はしたけど、すぐに自分から勇気をだして告白していたさ」
おほんとひとつ咳払いをして、僕は言葉をつづけた。
「選択肢はその二ということで。あしたからもよろしく、幸」
やれやれ。僕はいま、かなり情けない顔をしているんだろうな。
「いいんかぁ? 幼なじみってことは、気やすく抱きつくぞ? キスするぞ? いっしょに風呂はいるぞ? 生殺しだぞぉ?」
口もとに手をやり、幸がくすくすと笑った。そんなのは、いままでどおりだ。ああ、生殺しだとも。
「ちょっとまて。風呂にいっしょにはいってくれるの?」
「ごめん。やっぱそれなし」
冗談とはわかっていたが、とりあえず肩を落とすふりをしてみた。すると、幸はふいに体を動かし、僕との距離をちぢめてきた。
どうしたのだろうと思うまもなく、幸はさっきとおなじように、こちらを抱きよせてきた。
「えっ、ゆ、幸?」
いきなりのことに、僕はうろたえてしまった。
「なんで動揺してんの? ただの幼なじみっしょ?」
すこし怒ったようにそういって、それから、幸は僕からはなれた。
もとの距離ですわりなおすと、幸は冷ややかな口調でつづけた。
「もどれないんなら、選択肢その一にかえる? アタシはそっちでもいいよ?」
やめてくれ。絶対にいやだ。
「ちょっとおどろいただけだよ。それに、約束はあしたからだろ」
「ありゃ、そーゆー解釈なん? そんじゃ、今日のうちにいっぱい練習しておかなくちゃね」
ニヤリというふうに、幸は意地悪そうな笑みを浮かべた。しかし、その目は真っ赤なままだった。