第二十一話 四月九日(月)黄昏 3
ちょうど、場所が近かったこともあり、僕たちはひとまず、商店街の裏手の公園に移動することにした。昨日、幸に告白して、見事に玉砕させられたあの場所である。
うす暗く、ひとけのない公園に、幽霊とふたりきりというのは、できれば遠慮させていただきたいシチュエーションではあった。それでも、街灯にむかって話しかけているところをだれかに見られるよりかは、まだしもましだった。
「おー、いいところだねえ。これから会うときは、ここにするかぁ」
朗らかに笑いながら、あすかがいった。これからということは、どうやらいつのまにか、僕はこんご長期にわたって、この幽霊の相手をしなければならなくなったようである。
さてといって、あすかはこちらに向き直ると、真剣な表情を作った。
「えっと、幽霊ってことでわかると思うけどさ。アタシ、もう死んでるんだわ。事故で」
目のまえで元気に動いているので、実感はまったくわかなかった。しかし、あの体の冷たさを思うと、信じざるをえなかった。
もしかしたら、この肌色の白さも、おなじことを意味しているのだろうか。
まだ若くて、しかもこんなにかわいいのに。そう考えると、だんだん陰鬱な気持ちになってきた。
慰めの言葉をかけてあげたいが、すでに亡くなっているひとに、なんといってあげればいいのだろう。
迷っているあいだにも、あすかは言葉をつづけた。
「死んだのはもういいのよ。納得はしてるし、どうせ生きててもしょうがないって思ってたところだから。でも、人間は死後、魂がぬけるっていうでしょ? いわゆる霊魂とはちっとちがうんだけど、死者のいく世界があんのよ」
へえ、それでも納得はしているんだな。……うん? イキテテモショウガナイ?
「でねぇ……。アタシ、事故で死んだのに、それが懲罰の対象になっちゃっててさ。その世界にいけなくなっちゃったわけ。ま、簡単にいえば、成仏できないの」
チョーバツ? 超、いやちがう。懲罰かな。
ふむ。どうも、さきほどから、よくわからない言葉がでてきているような気がするのだが……。
「ちょっとまって。チョーバツって、罰するって意味の懲罰でいいんだよね。なんで亡くなったのに、罰をうけなきゃならないの?」
「なんつうか、自殺あつかいになってんのよ、アタシの事故」
ジサ……えっ。
「いったい、どんな事故?」
「ベランダからおちたんだ。アタシんち、家っていうか、分譲マンションの上層階でさ。幽霊になったあと、自分の死体を見たけど、それはもう、えらいことになってた。頭はぐしゃぐしゃだし、手脚はあさってのほうをむいてるし、血なんかそこら中に飛びちっちゃって。ああいうのをスプラッタっていうんだろうね」
耳を疑うようなことを、あすかは平然といってのけた。あまりのことに、僕は絶句してしまった。
完全に固まったこちらに一瞥をくれると、あすかはちいさく肩をすくめた。
「ちゃんと、ほんとに事故なんだぁって、その世界の……えっと、受付で説明したんだよ? でも、動機があるからって、認めてもらえなかったの」
マンションからの転落事故。砕けた体。飛び散った血液。死後の世界。受付。自殺。動機。懲罰。僕の脳内で、いくつもの不穏な文字列が、ちいさな羽虫の群れのようにうごめいていた。
「なんで……そんなことに」
「んー。アタシね、そんとき、風邪気味だったの。朝からぐあいが悪くってさ。学校のある日だったから、いちおう着替えたんだけど、なんかもういいやって思って、クスリ飲んで家でぽーっとしてたわけ。それで……あ、こっちじゃいま、春みたいだけど、アタシが死んだのは夏だったのよ。クーラーが冷たくて気持ち悪かったから、風にあたろうと思って、ベランダにでたんだわ」
淡々とした口調だった。自分が死んだときの話をしているようには見えなかった。まるで、散歩にでかけたときの話をするかのような、軽い態度だった。
「そとを見たらね、鳥が飛んでたの。いいなあ、鳥は自由でとか思っちゃってさ。それで、なんとなく気持ちがハイになったから、ベランダの柵のへりに腰をかけて、足をぷらぷらさせて、アタシ、歌ってたんだ。鳥になった気分で。そしたら、ほんとに鳥になっちゃった。風が気持ちよかったな……」
えへへと、あすかが笑った。いたずらの見つかった子供がするような、無邪気とすら思える笑みだった。
なぜだ? 自分の命をうしなったというのに、なんでそんなふうに笑えるんだ? 強い違和感とともに、僕は重苦しい気分につつまれた。
「……動機があるって、どんなこと? どうしてそれが、事故じゃなくて自殺とみなされているの?」
「アタシんち、両親の仲が悪かったんだわ。いっつも、喧嘩ばっかりしてた。ま、それも気分は悪かったけど、物心ついたときからずっとそうだったから、べつにいまさらって感じはあったのよ? ただ、こっちは受験をひかえた時期にはいってるのに、うちのバカ親ども、そんなんまでネタにして喧嘩はじめてさ」
ため息まじりに、あすかがいった。しかし……。受験生の進路をネタに、自分たちの喧嘩とは、どういう親だ? 子供がそれを見て、どんな気持ちになるかとか、考えられないのか?
「あと、ほかにも、いつも勉強を教えてくれるボーイフレンドがいたんだけど、ちょっとその子に……」
ふいに、あすかの瞳から、しずくがおちた。すくなくとも、僕にはそう見えた。
「あ、あれ? あはは。ごめん。あのね。……嫌われちゃって」
ごまかすようにそういって、あすかはさっと目元をぬぐった。
「おほん。で、アタシは、そんなことぐらいで自殺なんかするわけないっていったんだけど、受付のひと……じゃないか。とにかく、そいつが認めてくれないんさ」
「ふうん……」
話を総合すると、魔がさしたような事故を起こして亡くなったあすかを、受付――よくわからないが、閻魔みたいなものだろうか――が自殺と判定し、罰をあたえたということのようだ。
事故については、風邪をひいて朦朧としていたそうだし、そのせいで判断力をうしない、異常な行動をとってしまったということなのかもしれない。本人が自殺ではないと言い張っている以上、そう解釈してあげるべきなのだとは思う。
だが、客観的にどう見えるのかは、またべつの話だった。動機となりそうなことが、いくつも重なっているわけで、受付とやらが自殺と判定してしまったのも、しかたない気がする。
ああ、なんてかわいそうな子なんだろう。僕は思わず、嘆息せずにはいられなかった。
ここまで聞いたことだけでも、充分すぎるほど辛かっただろうに、あまつさえ死んでからも罰されるとは。
「でも……。あすかはどうしてここに? 僕にできることがあるなら、なんとかしてあげたいとは思うけどさ」
「ほんと? やったぁ! 公平、大好き!」
いきなり、あすかが僕に飛びついてきた。ぎゅうと音がしそうなほど強く抱きつき、頬ずりまでしてきた。
いや、ちょっとまて。抱きしめてくれるのはいいけど、うわあっ、寒い。冷える、こごえる。
真冬に、気づかないで冷水シャワーを浴びたかのごとき衝撃だった。僕の全身を悪寒が駆けぬけた。総毛が逆立ち、歯の根があわなくなった。
「あっ、ご、ごめん」
こちらの様子に気づいたらしく、あすかはすぐに離れてくれた。とたんに、僕はひいとまぬけな声をあげて、その場で激しく足踏みをしてしまった。そうして、両手で自分の体を掻きむしるように摩擦した。
はなれた瞬間から、寒さそのものは感じなくなっていたが、鳥肌が気持ち悪かったのである。
それでも、しばらく体をこすっているうちに、ようやくすこし落ちついてきた。
――よし、もうだいじょうぶだ。
呼吸をととのえ、僕はあらためてあすかに向き直った。彼女は申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
はじめのと違い、いまのはわざとではなさそうである。どちらかというと、うれしくてうっかりやっちゃったといったところだろうか。やはり、この子は悪い子ではないのだろう。どこか抜けているというふうに考えれば、そういう失敗もかわいいとすら思えてくる。
なにより、僕はすでに、あすかを疑う気になれなくなっていた。話しやすいというだけではない。ふしぎなぐらいに、波長があうように感じるのである。
ぜんぜん知らない子だったはずなのに、なぜ、こんなにも気やすく接してしまえるのだろう。ぼんやりと、そんなことを考えているうちに、ふと気づいた。幸は僕のことを、弟のように感じると言っていたではないか。性別は逆だが、あれはまさにこんな感覚なのかもしれない。
出会ってから、まだほんのちょっとしかたっていないのに、僕はあすかを、いわば妹のように感じはじめていた。
「あの、さ。自殺した人間の魂は、罰として奉仕作業をさせられることになってるんだわ。現世に生きている人間の役にたつことを。で、アタシの仕事は、公平をしあわせにすることなの」
気をとりなおしたように、あすかがいった。しあわせ? 僕は思わず首をかしげてしまった。
「公平、まだ恋人とかつくったことないでしょ? アタシがキューピッドになって、いい女とくっつけたげる」
なんだそりゃ。幽霊がキューピッドって、どういうことだ?
「意味がよくわからないんだけど」
「だからさ、好きなひとがいたらアタシに教えんの。アドバイスしたげるから」
腰に手をあて、あすかが胸をそらせた。えっへんのポーズである。そういえば、幼いころ、幸がよくこんな感じの態度で僕に接していたことを思いだした。
「けど、なんで僕を? あと、初対面なのにどうして名前とかを知ってたの?」
すると、あすかは一瞬、なんともいいようのない表情をうかべた。
悲しい? さびしい? 否、これは、せつない表情だ。いったい、どうしたのだろう。
「ごめん……。なんでも教えられるわけじゃないんだ。いろいろ決まりがあってさ。でも、アタシ、公平のことはわりとしってるよ。名前は、廣井公平。一月十七日生まれのヤギ座。血液型はA型。趣味は読書。それと、あんまり運動神経はよくないけど、筋トレとかジョギングとかをするのが好きだよね。なんか、マッチョに憧れてるんだっけ?」
からかうように、あすかが笑った。おお、なぜ、おまえは僕がひそかに体を鍛えていることを、しかもその理由までしっているのだ。恥ずかしくて、だれにも話していないのに。
つづいて、あすかは僕の家族構成や学歴などについても、すらすらと暗唱してみせた。
「初恋は五歳のとき。たまたま骨折して入院した病院で、宇佐美幸という年上の女の子にひとめぼれ。以来、ずっと思いこがれているものの、告白もできずにうじうじ。それでも幸さんのことが大好きなものだから、ほかの女とはつきあったことがない」
「まって。告白はしたよ」
とりあえず、訂正してみた。これはなんなのだろう。受付とかいう人外の存在に、資料でももらっているのだろうか。
「ほえ? 告白した? いつ?」
「昨日。で、ふられた」
その瞬間、あすかはなにか信じられないものを目にしたというふうに、僕をまじまじと見つめた。
「嘘ぉ? なんでふられんのよ! あんた、なにか女の子にしちゃいけないようなことでもした?」
はて、似たようなやりとりを、けさ、ゴーとしたような気がするのだが。
「とくに変なことはしてないよ。相手も、僕のことは嫌いじゃないってさ。ただ、弟にしか見えないっていわれた」
よほど、それが予想外の返答だったのか、あすかはかなり困惑しているように見えた。『嘘』『そんなはずは』などと、小声でなにか呟いているのが聞こえてきた。
「ところで、その幸なんだけどさ、あすかと感じがかなり似てるんだよね。もしかして、それも知ってる?」
僕の質問に、あすかはなぜか、はっとしたように表情を引き締めた。
「しってるっていうか、事前に資料を確認してきたから、名前と性格ぐらいは把握してるよ。……それで、ごめん。さっきいうのを忘れてたけど、あんまりアタシが生きてたころの知りあいとか、生活してた場所とか、そういう素性にかんすることは詮索しないでほしい。ちょっといろいろ、決まりごとがあるんだわ」
ほう、そうなのか。でも、べつに、幸と知りあいかとたずねたつもりではなかったんだけどな。
さきほども、決まりがどうとかいっていたが、幽霊の世界も人間の世界と同様、法律のようなものがあるということなのだろうか。なんにせよ、聞かないでほしいというのを、むりに答えさせる必要はない。
「むう……。だけど、てっきりアタシ、あんたと幸さんをくっつけるだけでいいから簡単だと思ってたのになあ」
腕ぐみをして、あすかはつかのま、なにやら考えごとをしているようだった。だが、やがて、ぱちんとひとつかしわ手をうつと、まあいいかという感じでつづけた。
「とにかくさ、アタシがあんたにアドバイスしてやっから、だれでも気になる子がいたら教えて。あと、幸さんだって、公平のことを恋愛の対象として見れないってことはないと思うよ。仲、いいんでしょ?」
仲はいいと思う。といっても、幸は近しい人間にたいする愛情が強い女だし、こちらがそれを恋愛感情と勘ちがいしてしまうと、おたがいによくない結果になるのではないだろうか。
「男なら、押しの一手! ファイトだ、オー! ……っと、そろそろこんな時間。いかなきゃ」
ひとりで気合をいれていたあすかが、唐突にそんなことを言ってきた。それで、腕時計を確認してみると、彼女があらわれてからおよそ一時間ほどがすぎたころだった。
「いく? どこへ?」
人間の少女なら、そろそろ帰宅するべき時刻である。しかし、すでに死者であるあすかは、いったいどこに帰るのだろう。
そう考えた刹那、ふいに僕は胸を衝かれるような気分におちいった。
「いまはこうして公平と話せてるけど、アタシ、この世界には存在してないから……。つぎに会えるのは、こっちの時間で、一週間ごぐらいかな。いろいろ条件があるんだ。決まりごとがおおくてさ」
彼女は笑顔だった。なのに、それがひどく儚げなものであるように感じられて、僕はそのとき、心からこの子を助けてあげたいと思った。
ようするに、奉仕作業、すなわち、僕がだれか女と結ばれることの手助けを完遂すれば、あすかは成仏することができ、その魂も救われるということのようだ。
当然のことながら、恋人ができれば、僕自身もしあわせになれるはずである。断るような話ではなかった。
「わかった。一週間ごってことは、来週月曜のいまぐらいの時間に、ここにくればいいんだね?」
「うん。……ありがとう。公平はやさしいんだね。はじめて会った見ずしらずの幽霊のお願いを、すなおに聞いてくれて」
やさしいだなんて。ちょっと公園にきて、話をするだけだ。道草とか散歩の延長のようなもので、たいした負担になるわけでもない。それに、恋人をつくるための努力ぐらい、だれだってする。
「気にしなくていいさ。情けはひとのためならず、うれしいことのお礼は前倒しってね」
この言葉は、幸の受け売りである。
幼いころから体が弱く、多くのひとに助けられて生きてきたせいか、幸はだれかになにかをしてもらったときに、お礼ができないことを極端に嫌っている。そのため、ひとになにかをたのむときには、かならず『お返しをするから』とつけくわえるし、いったとおりに実行もしている。
とはいえ、お返しというのはどうしても受身になってしまい、状況によっては難しい場合もある。そこで、なにかしてもらうまえに、お礼をしておこうという発想がうまれた。
幸がだれにでも親切にしているのは、いつかだれかにしてもらう恩へのお礼返しなのだ……おや?
えっ、なんだ、どうした? 一瞬、あすかがいまにも泣き出しそうな顔をしているように見えたぞ。
「ね、あとひとつ、お願いがあるんだけど、いいかな」
静かな声だった。表情も、笑顔のままで、動いていないはずである。それでも、僕にはなぜか、あすかが深い悲しみの底に沈んでいるように感じられた。
「もうアタシ、こっちの時間であと一分もしないうちに消えちゃうから……。そのあいだ、抱きしめていてほしいんだ。たぶん、公平にとってはすごく冷たくて、つらいと思うんだけど、嫌じゃなかったら」
うなずく代わりに、僕はだまってあすかを抱きよせた。背中に、相手の腕がまわされてきた。
冷たい。そして、寒い。それでも、僕は必死で耐えた。さきほどは突然だったのであせったが、覚悟を決めたうえでなら、まったく我慢できないというほどではないのだ。
しっかりと、僕はあすかの体をつつみこんでやった。かじりつくように、彼女も抱きかえしてきた。痛みすら感じるほどの激しい抱擁だった。
あすかは、女の子である。力は、男の僕よりはずっと弱いはずである。それなのに、どうしてだろう。なぜ、彼女はこうも強く、こちらにしがみついてきているのだろう。
放っておけるはずがない。こんなふうに、飢えるように求められて。
――すぐに、僕の腕のなかであすかの存在感が失われはじめた。砂粒が、指のすきまからこぼれおちるように、彼女がいなくなっていく。
また来週。完全に、あすかが消え去った瞬間に、そんな声が聞こえたような気がした。