第二百一話 九月十七日(月)黄昏 3
今回の発言にかぎらず、あすかは自身の母親を強く嫌悪している。理由としていくつか聞いただけでも、初潮をむかえたこの子にたいして意味不明な怒りをぶつけてきたとか、経済的にある程度の余裕があるのに高校進学に反対したとか、理解するのが困難で、たしかに親としては問題の多い女性なのだろうという印象を受ける。
だが、この子が話してきたほかのことも総合して考えると、ちがう側面がうかびあがってくるのではないか。
たとえば、これらの発言だ。
――知らないよぉ。アタシの母親、わけわかんないもん。だいたい、自分は働きもしないで日がな一日ゴロゴロしてるだけのくせに、お金がないとか、ほんとよくいうわ。
――掃除も洗濯も、ぜんぶアタシがひとりでやってたっつうの! 母親なんか、病気だとかなんとか言いわけして、いっつもボケーっとしてただけなんだから。
ヒントは『病気』である。
もちろん、母親の性格が悪くて、仮病をつかって娘をこき使っていたという可能性もなくはない。しかし、あすかには父親も健在だし、学校でいじめを受けたときに頼った保険医など、話をすることのできる相手もいる。ほんとうにそのような状況にあったのなら、この子がなにもいわなかったとは思えない。
そのうえで、家事の大部分を受け持たされていたというのなら、この子の母親は実際に病身だったと判断するのが妥当だ。
ならば、それはいったいどんな病気なのか。
――聞いても教えてくれなかったもん。ずっとゴロゴロしてるんだから『ただひたすらゴロ寝したくなる病』とかじゃないの?
どこが悪いと見た目で判断することができず、それでいて家事等の仕事を満足にこなすことができない症状。そこに、娘にはっきりとした病名をおしえることをはばかられるという条件がくわわる。
病気にも、いろいろな種類がある。発熱したり嘔吐したりといった肉体的なものもあれば、心に作用するようなものも。
どちらも、健全な生活を営むことが困難になるにはちがいないが、とくに後者、いわゆる『精神病』は、他人の偏見や無理解にさらされることもあるから、病名を隠すほうが無難な場合もあるだろう。
もし、あすかの母親が精神病を患ってしまっていたのだとすると、両親が病名を教えなかった理由も、推測が可能だ。
中学生といえば、やはり判断力は弱く、情緒面も未成熟である。高校生である僕ですら、振りかえった当時の自分やすこしまえまでの徹子ちゃん、さらにいまのあすかを見ていてそう感じるのだから、おとなの目から見たらなおさらだろう。
いっぽうで、母親が精神を病むという事態は、子供にとっては非常に重大なものである。深刻に受け止めすぎてプレッシャーを感じるのもいかにもありそうなことだし、話すべきではない相手に相談という形で秘密を明かしてしまうかもしれない。
これらの懸念を考えただけでも、親が『まだ中学生の娘には、くわしく説明しないでおこう』という選択肢をとってしまうのは、いたしかたないことといえる。
ではそれを、あすかの立場から考えてみるとどうか。迷惑で理不尽な言動をとりつづける母親。病気と称してろくに働かず、そのしわ寄せが自分のところに来ているのに、正確な理由も教えてもらえないのだ。
まだ子供であるからこそ、この子が母親を『頭がおかしい』と嫌悪し、いじめを受けるきっかけになるなどの被害から、憎しみを抱くようになってしまったのも、充分にありえるのではないか。
「聞いてくれ、あすか」
数回、深呼吸をして考えをまとめた。いまから言うのは、ある意味、事前に用意していた言葉である。この仮説を思いついたときから、胸のなかであたためていたもの。
「僕は……母親のお腹のなかにいるとき逆子で、かなり難産だったらしいんだ。それで、お産のときには帝王切開をしたって聞いている」
ごくありふれた自分語りをとっかかりに、僕は『説得』を試みることにした。
最近ではあまり言われなくなったが、ちいさなころ、僕がだだをこねたり、口答えをしてみたりというようなときには、よく母さんがこの話をしてくれたものだ。いわゆる『お腹を痛めて産んだ』というやつである。
小学校の高学年のいつだったか、こざかしくも、どこかで聞きかじった『お産は麻酔をするから痛くない』という馬鹿な反論を返したことがある。母さんは、よっぽど腹が立ったのだろう。僕を一発引っ叩いたあと、上着を捲り上げて傷あとの一部を見せてきたのだ。
「もっとちいさなころにはいっしょに風呂にだって入ってたわけでさ。そこにそういう傷あとがあることぐらいは知っていたよ。でも、実際に指差して『ここを刃物で切り裂いてあんたを取り出したんだよ。これ見ても痛くないっていえんの?』って怒鳴られたら、さすがにぐうの音も出ないよね。縦に、すごく太い線が伸びてるんだもの」
横目で、あまりはっきりと視界におさめないように様子をうかがうと、あすかはいくらか身じろぎしていて、どうやら服を着なおそうとしているようだった。
「ねえ、あすか」
きっとわかってもらえる。そう信じて、僕は言葉をつづけた。
「親だって人間なんだ。神さまじゃない。病気になることもあれば、まちがって自分勝手な考えに陥ることだってある。怠けたくなる日だってあるだろうし、疲れて動けなくなるようなときだってあるだろうさ。そういうことのしわ寄せが、たとえばあすかのところにいっていたとしたら」
もっとも、心のどこかでは、自分でも気づいていた部分があったのかもしれない。この言葉が、ひどく薄っぺらなものだということに。
「理不尽に感じたり、怒りたくなるってのもわかるよ。同情だってする。だけど、それも親子だからなんだ。世の中には、子供を捨てて平然としているようなやつだっている。逆に、ストレス解消のために暴力をふるうようなやつだっている。それに比べれば、多少問題のある形だったとしても、きちんと中学生になるまで育ててもらえたぶん、あすかはしあわせだったんじゃないかって思う」
返事はなかった。僕はあすかのほうを見ずに――相手の反応もろくに確認しないまま、自分の言いたいことだけを口にしていた。
「よく血縁、血のつながりっていうじゃないか。親子ってのは、おなじ血が流れているものなんだよ。あすかのお母さんは、きっとあすかによく似た綺麗なひとなんだろう? お父さんだって、きっとお母さんのことがほんとうに好きで、奥さんとして選んだのさ。だから、あすかがお母さんの至らない点を許してあげられれば、家族はきっとうまく」
「流れてないよ」
ようやくかえってきたあすかの声は、ひどく空虚な響きをしていた。
「……えっ?」
「血。流れてないって言ったの」
一瞬、なにを言われたのかわからず、僕は頭をまわして相手のほうを見た。あすかはいちおう、上着の袖に腕は通したようだが、まえははだけたままだった。
目をそらすべきだ。そう思ったが、できなかった。あすかの表情が、おそろしく異質なものに見えたからだった。
「ぜんぶ、捨てたもん」
ぞっとするほど冷たい口調だった。
「マンションから落ちて死んだって、アタシ、いったよね。体がつぶれてぐしゃぐしゃになったって。そのときにね、血なんかみーんな地面に流れちゃったんだよ」
口角を持ち上げている。笑み? 否、ちがう。こんな言葉を言い放つときの表情が、笑顔であってたまるか。
ああ、やはり。ほら見ろ。この子の両目から、涙が流れている。泣きながら、あすかは僕を嗤っていた。
逡巡はしなかった。僕はあすかを抱きしめた。この子に、こんなことをいわせてはいけないと思った。
あすかはいま、傷ついている。自分の心を切り刻みながら、この言葉を口にしているのだ。
これは――この言葉は、僕が言わせてしまったのだ。忘れていたつもりはなかった。つい、舌が滑った。この子はもう、死んでいるのに。すでに、取り返しのつかない彼岸へとわたってしまったあとなのに。
失言だった。なぜだ。なぜいまさら僕は、あすかに反省をうながすようなことを言ってしまった? 反省したら、この子は生き返るのか? 死んだことが、なかったことになるとでも?
氷のように冷たい体。こころと交際をはじめてから、いちども抱きしめていなかったその温度は、僕にどうしようもなく死というものを連想させた。
「すまなかった、あすか。言い過ぎたみたいだ」
力いっぱい相手を掻き抱きながら、僕は必死で思考をめぐらせた。
「そ、そうだ。お父さんの話をしてくれないか? ほら、好きだったんだろ」
自分でも、はっきりと自覚できるぐらい卑劣な言いまわしだった。僕は姑息にも、こんなやりかたで自分の失言をごまかそうとしたのである。そして、それにたいするあすかの答えは、痛々しいほどに想像通りのものだった。
「パパも嫌い。だぁいっきらい」
はっきりとしたあすかの嘲笑に、僕はくちびるをかみ締めた。
「あんなのを好きになるなんて、パパもどこかおかしいに決まってるんだから」