第二百話 九月十七日(月)黄昏 2
「公平、ひとり?」
声がしたのは、しかし前方からだった。えっ、と思って視線をまえにもどすと、ほんの二メートルばかりのところに、あすかの姿がある。
ははあ、なるほど。僕は表情に笑みをつくってうなずきを返すと、相手にとなりに座るよううながした。
「あの転校生、いないんだ?」
警戒半分といった様子で、あすかが周囲を見回している。すこしのあいだそうしてから、ようやく安心したのか、彼女はぴょんと跳ねるようにして僕の右隣の席に腰をおろした。
「ちょっと、怒らせるようなことをしちゃってね。ほんとうは、今日もあすかと会って欲しかったんだけど」
「あんなのと会いたくない!」
口を尖らせるように、あすかがいった。思わず鼻か、くちびるの先端でも摘んでみたくなるような、幼くかわいらしい顔。僕の愛するひとによく似た面差しでもある。
とはいえ、そのことにほだされるわけにもいかなかった。
「ねえ、ケンカしたんだったら、もうそのまま別れちゃえばいいじゃない」
笑顔で、あすかがそんな嫌なことを言ってきた。だが、この場は遮らず、もうすこしだけ好きにしゃべらせてやることにした。
「ほら、公平って律儀だからさ。つきあってすぐ別れるなんていけないって思うかもしれないけど、こういうのってダメだってわかったら、むりに引っぱってもしょうがないんだし」
注意して観察してみると、この子が通常の状態ではないのがよくわかった。顔の形は笑みであっても、ひどく切羽詰った表情をしている。どうしても、僕を『説得』しなければという、必死の決意で凝り固まっているかのようだった。
「もしかしたら、転校生を傷つけるのを心配しているのかもしれないけど」
不愉快な物言いだと感じたが、我慢した。いまは怒るべきではないと思ったからである。
「ああいうタイプは、ちょっと同情的なところを見せたら、際限なく依存してくるんだよ? へたに弱みを見せたら最後、相手の迷惑なんてかえりみずに、どこまでも」
「やめてくれ、あすか」
そろそろ、充分だろう。僕は片手をあげて相手の発言を制した。
以前、徹子ちゃんが、似たようなことを言っていたのを思い出した。こころが僕を一方的に好きになって、ストーカーのように付きまとった挙句、弱みを握られて交際せざるをえなくなったのだろう、と。
きちんと説明をすることで、その誤解はとくことができたが、ではこの子の気持ちは、どうほぐしてあげればいいのか。
前回、こころとふたりして話して聞かせたことを、あすかは完全に無視している。きちんと、たがいに惹かれあって交際することに決めたと説明したのに、こうも曲解したようなことを言ってくるのだ。
穏当な言いかたをしても、話が通じないのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
「……こころを、抱いたんだ」
考えうる限り、もっとも端的で理解しやすい言葉をつかうと、あすかは目に驚愕の色をうかべて絶句した。
「先週のことさ。こころとはもう、一時的にケンカをすることはあっても、簡単に別れるなんて考えられないんだよ。だから……どういう理由があって、あすかがそんなことをしようとしているのかは知らないけど、僕にほかの女を選ばせようとするのは、あきらめて欲しい」
確証はなかった。それでも、想像することはできる。あすかはほぼまちがいなく、僕の幸せのために天からつかわされたキューピッドではないのだ。
むしろ、恣意的に運命をもてあそぼうとするのなら、その所業は悪魔のものであるとすらいえる。
「依存してくるならそれでもいいさ。僕はそういうところまで含めて、こころを好きになったんだ。なにか問題があるなら、ひとつひとつ解決していけばいい。友だちだっている。親だって助けてくれる」
するとあすかは、いやいやをする子供のようにかぶりを振った。
「だって、だってあの転校生は」
「転校生じゃない!」
思わず、声を荒げてしまった。そのことに、僕は自分で自分に違和感をおぼえた。
そこまで強く腹を立てているつもりはなかったが、どうやら無意識にでも、感情的になっている部分があったようである。
「おほん。……クラスには、もうとけこんでいるからさ。堤こころ。僕の恋人だよ。ちゃんと、名前で呼んでくれないか」
うつむきがちな顔で、あすかが下唇をかみ締めている。あえて言葉をかけようとはしなかった。
絶対に、譲れないものがある。僕自身の気持ちももちろんそうだが、あすかについてもそうだ。いま胸にある仮説が真実であるのなら、この子にはどうしても伝えなければならないことがあった。
「その……ひとと、エッチしたの? 公平」
ややあって、あすかがおずおずと口を開いた。
「うん、したよ」
このごにおよんで、まだこころを代名詞で呼ぶのか。相手の頑なさに、僕は眉をひそめたくなった。いや、単語を変えてくれただけでもマシなのかな?
僕がさらになにか言うまえに、ふいに、あすかの手がうごいた。
「えっと、あ、あの」
なぜか、自身のブラウスの、襟首あたりに指をかけている。声もふくめ、からだ全体が震えているようにも見えるが……。
「そう、そうだよね。公平、高校生なんだもんね。女の子とエッチなこと、したかったよね」
なんだ? この子はなにを言っている? なにを……している?
第一ボタンが。つづいて、第二ボタンが。あすかのブラウスのまえが少しずつはだけられ、あらわになっていく。すでに飾りけのない白のスポーツブラが曝け出されたのに、まだ手の動きを止めていないという状況にあってさえなお、僕は呆然として、ほとんど事態を把握することができていなかった。
「でも、でもさ、その、女の子とやりたいんだったら……あ、アタシを、おかしていいから」
「おい……?」
こちらの困惑をよそに、あすかは上着のボタンをすべてはずしてしまうと、こんどはブラウスの袖から腕を引き抜いた。
またたくまに、あすかの上半身が肌着一枚になった。
「アタシ、まだ処女なんだよ。どうせ、アレとはゴムつけてしたんでしょ、公平が望むのなら、あすか、幽霊だから、生でも心配とかいらない」
背中に悪寒が走ったのと、かっと顔面が熱くなったのは、ほとんど同時だった。
「馬鹿なことすんなあっ!」
腹の底から、ここ数年で記憶にないようなレベルの怒声を出した。とたんに、あすかは『ひっ』と声をあげ、体をちぢこまらせたが、そんなことを気にする余裕は僕にはなかった。
自分のなかの、いちばん大切なものを侮辱された気分だった。愛するひとに似た顔で、似た声で、この子がこんな汚らしいことを言うのが許せなかった。しらず、腕をふりあげそうになり、僕は歯をくいしばってその衝動に耐えた。
「なに考えてるんだ、いったい! 頭がどうかしてるんじゃないのか?」
代わりに、怒りにまかせて大声でわめきちらした。そうしなければ、ほんとうに手が出てしまうと思った。
「早く服きろよ! ほら」
吐き捨てるようにそういって、僕は舌打ちをした。そのときになってようやく、自分がいつのまにか立ち上がっていたことに気づいた。
見ると、あすかはベンチに座ったまま、おびえたように背中を丸めている。なんとなく、男がちいさな子供に暴力的な罵声を浴びせかけている場面を連想してしまい、僕は強い自己嫌悪をおぼえた。
「理由、いいなよ」
なかば不貞腐れたような気持ちで、どっかりとベンチに腰をおろすと、それでも僕は、できるかぎり冷静な声を出すよう努めた。
「異常なことをしたっていう自覚ぐらいあるだろ? ちゃんと説明してくれなきゃ、収まりつかないよ、これ……」
まだ、あすかは動こうとしない。薄暗くなりかけた空のしたで、彼女が白い肩を震わせている。いまさらながら、相手が下着姿であることを意識して、僕は顔ごとそちらから視線をそらせた。
「母親に、似てる、から」
表面張力の限界までたっしたコップから、ゆっくりと水があふれだすように、あすかが言った。
「あす……かの、母親、頭がおかし、かったの。気が、くるっていて、いつも、わけのわからないことを言って、ひとに迷惑、かけて……。だから、あんなのと、いっしょになったら、公平が、不幸になる、から」
しゃくりあげるような、たどたどしい涙声。どう見ても、苦し紛れにひねりだしたという態のその言い訳に、僕は奥歯を噛みしめた。
決まりだな、と思った
すべて状況証拠だけ。それでも、もう揺るがない。
断言できる。いまのこの子の発言には、ウソが含まれていた。それも、僕をだましてなにか利益を得るためのものでは、たぶんない。あすかは、なんらかの事情により、直接ほんとうのことを言うことができなくなっているのだ。そして、話せる範囲内で、真実に近いことを伝えようと努力もしている。
おぼろげでも、ことの輪郭は理解することができた。しかし僕は、そのうえでこの子の考えを否定しなければならなかった。
「お母さんのことを、悪くいうんじゃない」
視線を相手からはずしたまま、僕はいった。