第百九十八話 九月十七日(月)昼
結論からいうと、朝のうちにこころを捕まえることはかなわなかった。
駆け足自体は、こちらのほうが速いはずである。ところが彼女は、どうやら玄関から一直線に外来者用の入り口にむかい、そのままスリッパを履いて校舎に入ってしまったようなのだ。
ゲタ箱で、僕があたりを見回したり、上履きに履き替えたりしているころには、こころはすでに、雲隠れしてしまったあとだった。
しかも、教室を確認しにいき、また玄関にもどってもどうしても見つからず、途中で探すのをあきらめて自席で待っていたのに、どんなに時間がたっても、こころはいっこうにやって来ない。
結局、彼女があらわれたのはチャイムが鳴り、担任の嵐山が到着したあと、さらにしばらくたってからである。
やれやれ、なにも遅刻あつかいになってまで逃げまわらなくたっていいだろうに。席でひとり、僕は口をとがらせた。
さて、こころがその間どうやって隠れていたかについてだが、手がかりを得たのは一時間めが終了したあとだった。
こんどこそ話をしようと思い、僕は勉強道具をかたづけるのもそこそこに、恋人の席へと向かった。そうして、いきおいこんで謝罪の言葉を口にしたのだが、こころは立ち上がってわざとらしくぷいと顔を背けると、そのまま歩き去ろうとしてきたのである。
教室のなかである。そこかしこに耳目があるので、突っこんだ内容の会話はできない。もちろん、あまり広くもないため、腕をつかむなりして強引に振り返らせるのもはばかられる。それでも、相手のとなりで歩調をあわせながら、当たり障りのない範囲で謝罪の言葉を述べていたのに、こころはそれらをことごとく無視して早足に廊下をわたると、さっさと女子トイレに入ってしまった。
二時間めのあとも、三時間めあとも同様の展開だったのである。こころは休み時間になると女子トイレに立て篭もり、チャイムが鳴るまで出てこなかったのだ。
きっと朝も、一階のトイレで時間になるのを待ってたんだろうなあ。廊下で忠犬ハチ公然としつつ、僕はため息をついた。
ようやく状況がかわったのは、四時間めの休み時間、すなわち昼休みになってからである。
相手のほうから、つかつかという感じで僕の席に歩みよってきた。
「これ」
押しつけられたのは、いつもの僕用の弁当箱だった。
「毎朝の癖で……。べ、べつにこーへいしゃんのために持ってきたとかじゃないんだからね! だって、作ったらだれかが食べないともったいないんだもん」
こころの顔が、真っ赤である。笑いそうになるのをこらえるのに、僕はかなりの労力を必要とした。
「ありがとう、こころ。じゃあ、いっしょに」
食べよう。そう言おうと思ったのだが、こころは僕が弁当箱を受け取ると、ふたたびもとのツンモードにもどってしまい、二の句を継げるまえに、幸や委員長のグループのほうに早足で行ってしまった。
あわててあとを追おうとしたら、向こうの席で、幸が、僕に向かって両手を交差させているのが目にはいった。この場はあきらめろとのジェスチャーだろうか。こころはそのとなりで、すでに委員長と会話をはじめている。
むう、しかたないか。僕は片手をあげて幸に返事の合図をすると、ゴーや黒田たちのグループに混ぜてもらうことにした。
「なあ、なんだよ、いまの堤さん」
席につくなり、差し向かいに座っている黒田が話しかけてきた。
「えっと……。ツンデレってやつ?」
半疑問系で答えると、黒田はさらなる追求をしてきた。
「ごまかすなよ。堤さんっていつもおまえにデレデレだったやん」
「じゃあデレツンとか」
こんどは周囲から、なんだそりゃ、との声があがった。
事情を多少なりと知っているゴー以外の、場の何人もが黒田に同調している。否、どちらかというと、みんなのなかの急先鋒がこいつという感じか。
「ほれ、なにやらかしたんだ? 堤さんを怒らせるようなことをしたんだろ? お兄さんに相談してみれ。……さてはおまえ、女房だとか言って、いやがってるのを無理やり押し倒し、あんなことやこんなことまで」
嫌がってないわい。
しかし、黒田ってほんとにしつこいよなあ。せっかく、先日のライブで尊敬する友人に格上げしたのに、評価がだだ下がりになりそうだぞ。
まあ、ちょうどいい機会か。僕は反撃に転じることにした。
「ところでさ、黒田。おまえ彼女ができたんだって?」
いきなり、黒田が硬直した。
同時に、僕を質問攻めにしようとしていた男子たちが、いっせいに黒田のほうに向き直った。ゴーもこの情報は持っていなかったようで、おどろいたような顔をしている。
「な、なにがや……」
視線が泳いでるぞ、黒田。それに、そのエセ関西弁ふうの返しはごまかしになっていない。
「えっ、マジ?」
「ちょ、いつのまに」
「相手はだれだ、おい」
狼狽しているのがいい証拠になったのだろう。またたくまに、こんどは黒田が男子たちの標的になった。おかげで、僕はなんとか落ち着いて弁当をひろげることができた。
ほほう、これは、こころが鞄を落としたせいだな。いい感じに中身が乱れている。
手早くおかずの厚焼き卵や漬物などをあるべき位置に戻していると、黒田がヤケ気味の口調で叫んだ。
「ま、待てまて、廣井。おまえ、なんでそんなん知ってんだよ。どこ情報だ」
「どこ情報っていうか、うーんと、さ。黒田って、友だち多いよね」
ニヤリと笑ってそうかえすと、黒田はがっくりとうなだれてしまった。
協力させたということは、最低でもバンドのメンバー、おそらくは軽音部員の複数が知っているはずである。こういっておけば、情報源がふたつ以上という雰囲気が出て、特定しにくくなるだろう。
そもそも、こいつが友だちが多いのは事実だし、僕は嘘は言っていない。
「つーことは、コウ。こいつの彼女がだれかも知ってるんだな?」
確認するように、ゴーがいった。
「いちおう。黒田、みんなに教えてもいい?」
「……くっそ、わかった、言うよ。俺がいう」
顔を伏せたまま、黒田が渋い声を出した。それからくいと片手の親指を立てて、どこかの方向を指し示した。
僕以外の全員が、そちらに視線をおくった。
「だれよ。あっちにいるのは堤さんと幸ちゃんと」
ゴーが最後まで言うまえに、数名の男子が、ガタリという音とともに、椅子を蹴たてて立ちあがった。
「お、おい、黒田」
うちひとりなど、信じられないという面持ちで目をむいている。
「まさか委員長か? ちがうよな?」
「いや、そのまさかさ」
黒田が顔をあげた。開きなおったのか、胸を張るように威儀をただしている。
「耀子だ。俺の彼女」
たちまち、男子たちの『ウソだろっ!』という絶叫がひびいた。あまりの騒々しさに、グループ外のクラスメイトたちの視線が集まってきた。さすがの黒田も、これには困ったらしく、声がおおきいと言ってしきりに沈静化させようとしている。
男子たちのその様子に、僕はいまさらながら、委員長は人気があるなあと思った。
わがクラスきってのロリ系巨乳美少女であり、同時にリーダーシップあふれるまとめ役でもある。マリア先輩という下級生由来のニックネームを引用するまでもなく、その存在感はまさにマドンナ。黒田ならずとも、好いている男は多いのだ。
「どうしたの」
騒ぎを不審に思ったのか、当の委員長が席を立って僕たちのグループのほうへとやってきた。
「なにごと?」
聞かれたのは、しかし副委員である僕ではなかった。顔の向きがちがっている。だまって様子を見守っていると、黒田がもごもごと『な、なんでもねーし』などと答えた。
ごく自然におこなわれたその問答と、なにかを察したというふうに咎める目つきで黒田を見つめる委員長の姿に、場の男子たちは意気消沈したようだった。立っていたものは全員椅子に座りなおし、ひとりは乾いた笑みをうかべ、もうひとりは両手を組んでうつむいた。
「いくら休み時間でも、あんまりハメをはずしたらダメよ」
ひとこと釘を刺して、委員長は自分の席に戻っていった。
「ああ、もう。ぜってー俺のせいだと思われた」
机に突っ伏すようにして、黒田がいった。
「嫌われたらどうしてくれんだよう。恨むぜ、廣井」
「悪かったよ」
苦笑しつつ、僕はポケットのなかに手をつっこんだ。
「ほら、これやるから。あとで委員長とふたりでいっしょに行くといいさ」
「ん?」
数枚の紙片を取り出して、机のうえにぽんと置いた。黒田は体を起こすと、ふしぎなものを見るような顔でそれを手にとった。
「商店街のジョルノ、知ってるだろ。あそこの割引券だよ。いまカップルイベントやっているんだ」
かいつまんで、先日のカップルジュースの話をすると、黒田の目が輝きはじめた。
「い、いいのか? いや、じつは耀子への告白に協力してもらう約束で、仲間たちにメシをおごったもんだからさ。今月の小遣い、大半がぶっとんじまってたんだ。もらえるんだったらマジ助かる」
「かまわないよ。もともと、お祝いにあげようって、こころとも話していたんだ。ふたりとも、僕らの共通の友だちだしね。……あ、ちゃんと自分たちの分もとってあるから、そっちも気にしなくていいよ」
心の友よ。そんなことをいって、黒田がずいとばかり腕と体をのばし、僕の肩を叩いてきた。席はあんまり近くないのに、ずいぶんと無理な姿勢をとったものである。
「でも、委員長が黒田の彼女になっちゃったら、僕もおいそれとは話しかけづらくなっちゃうかなあ」
いかにもついでという感じで、さりげなく、自分のなかで懸案になっていたことを確認してみた。
「俺はそんなんでぐだぐだいうほど器のちいさい男じゃないぜ。そうだ、廣井、こんどダブルデートしようや。せっかくのカップル割引券だし」
すっかりと、はしゃいでいる様子である。まあ、黒田はこういうやつだ。こいつのほうから文句を言ってくることなど、最初から心配していない。つまらないことに心を囚われていたのは、僕のほうである。
「そのうちね」
いずれにしても、これでようやく、僕のなかで委員長の立ち位置がはっきりと決まった。彼女はもう、他人の恋人である。
趣味のあう女友だち。ただそれだけだと、ずっと思っていたつもりだった。しかも、こちらにはすでに定まったパートナーがいる。そのくせ、こうして儀式めいたことをして、スイッチを切り替えないと、自分のなかから引っかかるものを消しきれなかったわけだ。
まったく、僕はなんという……いや、自虐的なことを考えるのはよそうか。つまり、委員長がそれだけ惜しいと思える魅力的な女性だったということだ。
そんな素敵な彼女と、一時は仲を噂されるほどの関係を築けていたことを誇ることにしよう。
のこりの昼休みは、勢いづいた黒田による怒涛の恋人自慢(正確には付き合ってもらえた自慢)に終始した。周囲の男子たちは深刻なダメージを受けているものが数名、純粋にうらやんでいるもの、呆れ気味に見ているものがやはり数名。僕はげんなりしたのが半分、あとは一抹のさびしさと、ふしぎな安堵の気持ちを胸にいだいたのだった。