第百九十七話 九月十七日(月)朝
翌日、目が覚めたのは、早朝のまだ暗い時間帯だった。
昨日は結局、帰ってすぐに昼食もとらずにベッドに入り、そのまま就寝してしまっいていた。単純計算するなら、たっぷり十数時間は眠ったことになるだろうか。
ただ、記憶はおぼろげながら、途中で起きて夕食をとった気もするので、もしかしたら、そこまでではないかもしれない。夢を見ただけのようにも思えたが、とりあえず腹は減ってはいなかった。
時計を見ると、いまは五時をすぎたばかりのようだ。僕は低いうなり声をあげて伸びをし、ベッドから降りて軽く体操としゃれこんだ。
調子はいい。気分も落ち着いている。たくさん寝たからか、悩みをすこしでもひとに話せたからなのか。幸との会話は、僕にとって精神安定剤のような作用があるらしい。
こころが最高の女なら、幸は最高の友だちだ。前屈運動で、床に掌をつけながら、そんなことを考えた。
体操をおえ、携帯の確認をした。やはりというべきか、こころからの着信履歴はなかった。幸からはメールが来ていて、ゴーにプレゼントを渡しておいたということと、ちゃんとココに謝っておけということが書かれてあった。
言われるまでもない。仲直りは今日にでも、絶対にする。
トイレと思い、階下に降りた。母さんはすでに起きていて、家事にとりかかっているところだった。
「おはよう、母さん」
「あら、こーちゃん。だいじょうぶ? ゆうべ、ずいぶんと早く寝たみたいだけど」
聞けば、昨夜の僕は夕食はとったそうだが、風呂に入っていないとのことである。ちょうどいいので、いまのうちに軽く汗を落とすことにした。
浴室でシャワーをあび、さっと頭と体を洗ってから、脱衣所で水気をとった。そこに、台所から母さんが声をかけてきた。
「ご飯、さきに食べちゃう?」
「まだ時間があるから、部屋で勉強してるよ」
自室にもどり、机にむかって問題集を開いた。ふだん目をさます時間帯まで、設問を解くことを繰り返してから、あらためて茶の間へとむかった。
いつもどおりの日常の再開である。父さんは例によって新聞を読んでいる。僕は母さんに昼食代をお願いした。こころに用事があって、今日は弁当が作れないと説明すると、とくに詮索はされなかった。
通学の時間になった。
制服に着替え、自宅をあとにした。待ちあわせ場所のコンビニには、いつものメンバーがそろっていた。
「よう、元気か、コウ。なんかひどい様子だったって聞いたが」
「ゆっくり休んで、ごらんの通りだよ。昨日は悪かったね、ドタキャンしちゃって」
明るい声で謝罪をすると、ゴーは怪訝そうに眉をひそめた。
「すぐにも死にそうな顔してたって聞いたんだがな」
たしかに、昨日の僕はそうだったろうな。しかし、いまの僕はちがう。気分は上々だ。なすべきことがはっきりと見えているからだろう。
まずは、こころと仲直りする。それができれば、もうひとつのことにも道が見えてくる。充分な休息をとったおかげで、思考がクリアになっている気がした。
登校の道すがらは、ふだんよりも積極的に話題を出した。冗談をいって、みんなを笑わせようともした。残念ながらすべってしまい、幸は呆れ顔で、ゴーと徹子ちゃんはふしぎそうに、眉尻をさげていた。
そうこうするうちに、学校が近づいてきた。
校門のわき、じゃまにならないあたりに、こころがたたずんでいるのが見えた。自然に足を速めると、むこうも僕たちの存在に気がついたようだ。
視線が交錯した。
たぶん、こころはあまり眠れていなかったのだろう。顔色がよくない。もうしわけないことをしたと、素直に思った。同時に、僕がかってに秘密を暴露したといって、立花さんや幸、委員長あたりにでも愚痴をこぼせばいいのに、とも。
ひとりで溜めこまれるぐらいなら、僕が女性陣から怒られるほうがよほどマシである。
一歩、また一歩。近づくにつれ、こころの表情がドラマティックな変遷をとげていく。まず顎に、つぎに眉間に。アスキーアートに使われるギリシャあたりの文字”Ψ”のような、綺麗な皺がよったのだ。
彼女もまた、僕に向かって歩きはじめていた。
般若の面。連想したのは、それである。
もっとも、能における般若の面とは、嫉妬に狂った女性の怒りを表現したものと聞いたことがある。ということは、いかに彷彿とさせようと、いまのこころを形容する比喩としては似つかわしくないのかもしれない。
距離はもう、一メートルをきっていた。
「ごめん、ここ……」
言いおわるよりはやく、ぱんという音が鳴った。目のまえに、ちいさな星が舞った。
「なんで!」
怒声だった。
「こーへいしゃん、なんでお人形のことママに言ったの!」
頬が熱い。だが、たいしたことはないと思った。彼女の腕の動きは大振りもいいところで、その気になれば余裕で避けられるものだったのだ。
いきなり殴られたというよりは、あえて殴らせてやったというのが正確なところである。
「こころ」
僕が足をまえに出したのと、こころが踏みこんで、ふたたび腕を振りあげてきたのは、ほとんど同時だった。
ふんっ、と、こころが、あまり似つかわしくない太く気合の入ったかけ声をはっした。そのときには、僕はすでに相手の手首をつかんでいた。
強引に、体を引き寄せた。
「ひゃっ」
腕のなかにこころが飛びこんでくるのを待って、僕は可能な限りやさしく、恋人の後頭部に片手を添えた。
「愛してる」
「んぅ?」
そのまま、唇を押しつけた。こころはなにが起こっているのか理解できていないのか、抵抗はせず、口を閉じることすらしなかった。
舌も、入れてみた。
掴んでいた手首をはなし、背中に両腕をまわして強く掻き抱いていく。
「ふっ……う」
肩のあたりに、相手の掌の感触がある。力はない。押しのけられるという感じもしない。ただ、当てられているだけだ。
周囲のざわめきが聞こえてきたが、無視した。しばらくのあいだ深いキスをかわして、それからゆっくりとくちびるをはなした。
濡れた口元から、かすかに透明な糸がのびている。こころは頬を上気させ、困ったように眉根を寄せていた。
ああ……。なんてかわいい女だろう。そして、すごく色っぽい。
つかのま、そんな場違いなことを考えて、なかばぼうっとしていた。
――と、ふいに、側頭部に衝撃が走った。
「ぐふっ」
さらになぜか、瞬間的な呼吸困難をおぼえ、僕は体勢をくずしてその場に片膝をついた。
「ば、ば、ば」
耳まで真っ赤にして、こころが僕を指差している。涙目で、全身をぶるぶると震わせていた。
「ばかじゃないのっ!」
どうやら、死角から頭を叩かれ、体がはなれた隙にみぞおちのあたりを押されたようである。
うわ、みっともない。女に殴られて転ぶなよ。自分の無様さに、僕は内心で毒づいた。
「こんなんじゃ、あむ、ごまかされないんだからね!」
手の甲で口を乱暴にぬぐい、こころが叫んだ。しかし、僕が余裕の表情を取り繕って立ち上がると、彼女は怯んだように後ずさりしはじめた。
「し、知らない! こーへいしゃんなんか」
言いざまに足元の手さげ鞄を拾いあげ――彼女がいつそれを落としたのか、僕はまったく覚えていなかった――くるりときびすを返すと、こころは校舎に向かって走り去ってしまった。
やれやれ。僕は苦笑した。
「みんな、ごめん。追いかけなきゃいけないから、さきに行かせてもらうね」
幼なじみたちのほうに振り返って、そう告げた。見ると、ゴーは口をあんぐりとあけた変な顔で、徹子ちゃんは三猿における『言わざる』のポーズで、それぞれ固まっている。幸だけは、あまり驚いてはいなそうだったが、さすがに気まずいのか、目をふせていた。
「……な、なあ、コウ」
膝の汚れを軽く払い、いまにも駆け出そうとしたところで、ゴーがようやく再起動をはたして話しかけてきた。
「なに?」
「いや、なにっつーか……。おまえ、けっこう青春してんのな」
まあね。片目をとじてそう返すと、僕は力強く地面を蹴った。