第百九十六話 九月十六日(日)午前
目があうなり、息を呑まれた。
商店街の入り口である。挨拶でもしようとしたのか、片手をあげた姿勢のまま、幸が固まっている。
毎度のことながら、この幼なじみは僕の精神状態に敏感だ。視力がよわく、そんなに細かいところまでは見えていないだろうに、じつにふしぎである。
「あんた、ゆうべ何時に……もしかして、寝てないのん?」
歩み寄ってきての彼女の第一声には、呆れと心配の響きが入り混じっていた。
「いろいろあってね。幸だけ? ほかには?」
徹子ちゃんは、家で僕たちを接待する準備があるので、迎えに来られないのは知っている。だが、約束した相手はもうひとりいるはずだった。
「ココは、あんたが連れてくるんっしょ? だからこの場所で待ちあわせにしたのに」
不審そうに、幸が目をほそめている。なにかを見極めようとしているかのような視線を、僕はそっぽを向いて受け流した。
「待とうか」
こちらの申し出に、幸はひとまずはなにも言わずにしたがってくれた。
日曜の昼まえということで、往来に人影は多い。道路わきの壁に背をもたれさせているあいだにも、続々と通りすぎていく。なのに、待ち人だけはいつまでたっても現れなかった。
「なあ、ココとケンカでもしたのん?」
当たり障りのない会話では、時間をつぶしきれなくなったころ、幸がいった。
「来ないってわかってて待ってるっしょ? あんた」
「ケンカはしていない。だけど、怒らせちゃったかもしれない」
昨夜、僕はこころと、就寝まえの電話をしていなかった。
なかば習慣のようなものとはいえ、べつに義務ではないし、一日ふつか欠かしたぐらいですぐにどうというものでもない。しかしけさ、こちらから電話をかけても、彼女は出てくれなかったのだ。
「理由、話せる?」
「むずかしいね。話したいのは山々なんだけど」
電話に出てくれなかったのは、偶然ではないだろう。桐子さんがあのあとさっそく、こころに僕と会って話したことを伝えたにちがいないのだから。となれば、相手の心境にどんな変化が起きたかなど、想像するまでもない。
こころはいま、怒っているのだ。僕がかってに、桐子さんに相談したことを。
はじめから、そうなる覚悟はしていた。予想もできていた。それでもやらなければならないというのは、こちらの都合である。
「友だちなんだからさあ」
露骨に、幸が顔をしかめていた。
「うーん、なんていうか……。カップルコンテストでさ、幸の話、したでしょ? あれと似たようなことを、こころにもやっちゃったんだよ」
僕は肩をすくめた。
暴露した人数は比較にならないが、内容が、本人が周囲に十年ほども秘密にしていた重大な問題についてのことで、いくら恋人でも簡単にすませられることではない。
だれかに話すことで怒らせたと思われるので、このうえ幸にまで言ってしまったら、ますます事態が悪化してしまう。
かいつまんでそう説明すると、幸はむずかしい顔をした。
「その問題って、けっこうシャレになんなかったりする?」
「もし、恋愛小説とかのヒロインにそんな過去設定がついてたら、作者の正気を疑うレベルかな」
委員長も見たことがあるそうだし、幸も当然、こころの背中にある火傷あとのことはしっているはずだ。こういう言いかたをすれば、そちら方面にまつわることだと酌んでくれるだろう。
「なんだってそんなん、他人に話しちゃったのさ」
「ただ話したんじゃなくて、相談したんだよ。僕ひとりじゃ重すぎてどうにもならないから、手助けになってくれそうなひとに。それでも、こころのほうからしたら、たまったもんじゃないよね。信用して明かした秘密を、暴露されたわけだから」
幸が口をつぐんだので、僕も黙ることにした。
さきほどから、頭が痛くてしかたがない。じつのところ、昨夜はベッドのなかでまんじりともできなかったので、それが原因かと思われる。いわゆる緊張性頭痛というやつだ。
こめかみのあたりを、拳の先端でぐりぐりと押してごまかそうともしてみたが、かえって痛みがはっきりとしてきただけだった。
「……で、どうすんの? そろそろ行くか、待つならせめて連絡しとかないと、タケちゃんたちが変に思うよ」
いちおう、あともういちど、こころに電話をかけてみるという手もある。
だが、朝にかけて出ないものを、昼に電話しなおしてどうにかなるものだろうか。僕の代わりに幸からなら、とも思うが、お願いする気にはちょっとならなかった。
「これ、たのむよ」
代わりに、僕は幸に荷物の紙袋を手渡した。
「なに?」
「ゴーへの誕生日プレゼント。木曜日にこころとふたりで買ったんだ。保管していたのが僕でよかった」
つかのま、幸はきょとんとした面持ちで、押しつけられた紙袋を見つめていた。しかし、僕が立ち上がるとあわてた様子で声をかけてきた。
「えっ、帰んの?」
「ごめん。正直、今日はみんなと遊んだりするの無理だし、ゴーたちにはよろしく言っておいてもらえるかな。……というか、いま眠いんだ、すごく」
両手をあわせ、拝みのポーズをとってみた。頭痛と目のしょぼしょぼさがあいまって、自分でもそれとわかるぐらい情けない顔になっていると思った。
「べつにいいけどさ……」
ふうと、幸がため息をついた。
「わあったよ。ま、あしたもガッコはあんだから、今日のうちにいっぱい休んで、疲れとっとき」
あす月曜日は、カレンダーのうえでは敬老の日の振り替え休日になるが、わが三ノ杜学園においては登校日に指定されている。授業時間の確保などの理由からそうなっているわけだが、いずれにしても、在校生にとっては平日と変わりなかった。
「うん、ありがとう」
手を振って、きびすを返そうとした。するとふいに、幸が思い出したようにいってきた。
「公平、ココと付き合えて、しあわせ?」
視線をもどすと、幸は壁にもたれたまま紙袋を胸にかかえていて、いくぶん頭をたれていた。
「なんだかさ、あんた、あの子とカレカノになってから、辛そうにしてることが多いよ? ……ほ、ほら、アタシにも後押しした責任とかあるから、もし」
「しあわせだよ。あんないい女はほかにいないって思うぐらい。本気でひとを好きになったら、辛くなるときだってあるさ」
一度は愛の告白をしたこともある相手に、こういう言いかたをするのはどうなのか。比較しているようで失礼だったかもしれない。そう思ったのは、言葉がぜんぶ出てしまったあとである。
しかし、幸はとくに気にしたふうでもなく、薄い笑みをうかべて『そっか』とつぶやいただけだった。




