第百九十四話 九月十五日(土)夕方 桐子との食事 3
ようやく、追加注文の品が届いた。
そこまで店が混んでいるというわけでもなさそうなのに、ドリンクとデザートひとりぶんにしては、わりと時間がかかった気がする。
もっとも、話題が一段落ついたところにウェイトレスがきたので、タイミング的にはちょうどよかったのかもしれない。
テーブルに備えつけの、シロップとクリームのポーションを一個ずつ、僕はコーヒーのカップについだ。
安っぽさ満点の、いかにもなファミレスのコーヒーである。ただ、この黒のなかに白いものが対流で自然に入り混じっていく様子は、見ていて飽きないものだった。
「公平くん、もうひとつ質問させてもらっていいかしら」
「ええ、なんなりと」
彼女が注文したのは、紅茶とチーズケーキである。さすがに親子というべきか、こころ同様、お菓子が好きなのだろう。
「あなたが親だったと仮定して、あの子にたいしてどうしてみたいのか、言ってみて」
「親だったとして、ですか?」
なにか、ふしぎなことを言われたような気がした。
雑談としては、親がどうとかいうのは、よくありそうなものだと思う。しかし、この質問は、僕が桐子さんから情報をもらうための条件として提示されているはずではなかったか。
なのに、こんなことを聞いてきて、彼女はいったいどうしたいのだろう。
あるいは、さきほどのように、とりあえずの意見を言わせておいて、それによってこちらを試すとか、引っかけてさらなる情報を引き出すとか、そういう意図でもあるのかもしれない。だとしたら、むだ話と判断して、うかつなことを答えるわけにもいかないが……。
いや、これはむしろ、チャンスかもしれないぞ。
立花さんとの電話で、僕は桐子さんに提案する内容を相談し、煮詰めてきた。会話の流れがおかしなことになっていたために、なかなか言うことができなかったが、相手の質問への回答という形でなら、ごく自然に切り出すことが可能だ。
よしと思い、僕はつかのま、話すべきことを頭のなかで整理した。
「……まず、桐子さんもそうですが、ご家族でもっと語りあう機会をもうけるべきだと思います」
ちいさく、桐子さんがうなずいた。
ご両親とも、仕事があるのだから、あまり強いことはいえない。それでも、こころの家庭環境はあまりよくないと、僕はどうしても思ってしまう。立花さんも同様に感じていたらしく、これは絶対に言っておくべきだということで意見が一致していた。
ただし、立花さんと相談したときには、人形のことを桐子さんが把握しているとは考えていなかったこともあり、案外、僕たちが懸念しているより、実際は親子でコミュニケーションがとれているのかもしれないという気はした。
「ほかには?」
「ご家族ですごす時間をふやすべきかと……。さきの意見とかぶるようですが、会話をするだけではなく、顔をあわせたり、いっしょに食事をとったりするようなことが必要だと思うんです」
すると、桐子さんはやれやれとばかりに肩をすくめた。
「わたしよりも、夫に言わないとダメね、それは。あのひと、完全に仕事中毒だし」
手元のカップに口をつけると、もう一言つけくわえた。
「まあ……。そちらはわたしから、やっておこうかしら。で、それだけ? あとはない?」
ずいぶんと、くだけた態度である。彼女のなかでは、もうこの話題は、ただの雑談に変わっているのかもしれない。そして、こちらの提案が妥当なら、受け入れてくれるつもりでもいるのだろう。
いずれにしても、立花さんと相談した内容のうち、重要なのは、おおむねこのふたつである。あとはおもに人形のことをどう話すかについてで、そちらも、予定通りとはいかないまでも、きちんと伝えることはできた。
すなわち、これでこの会合の目的は、大半を達成できたということだ。
チーズケーキを一口ぶん、桐子さんが皿からフォークで切りとろうとしている。安堵の気持ちをかかえつつ、僕は、言いたいことはそれだけということと、こころの過去の話を聞かせてほしいとのお願いをしようとした。
ほんの直前まで、そのつもりだったのである。
自分のなかに、ひやりとしたものがこみあげてくるのを感じたのは、いきなりだった。
脳裏を、だれかの姿がかすめた。
汚物を見るように表情をゆがめ、そして、普段の態度からは信じられないレベルの暴言を吐いた幽霊少女。
――なんなの、その転校生。アタマがオカシイんじゃない?
瞬間、僕は立花さんとの相談のときはおろか、それまでに考えてすらいなかったことを口走っていた。
「その、こころに精神科のカウンセリングを、受けさせたほうがいいのではないでしょうか」
「カウン……セリング?」
意外な言葉を聴いたというように、桐子さんがフォークを動かす手をとめた。顔をあげた彼女の目が、おおきく見開かれている。
突然、なにを言っているのだ。自分がしてしまった発言に、僕は内心で頭をかかえたくなった。
桐子さんが、眉をひそめてこちらを見つめている。口のあたりに手をあてていて、低いうなり声をあげているのが聞こえた。
このあとのフォローをどうすればいいのか。ひとまずの思考の焦点はそこだった。
すみません、冗談です……というのはシャレにならない。やめておいたほうが無難だろう。
むしろ、軽く笑いながら、おおげさかもしれないですが、というのはどうだ。真剣でありながら深刻さを演出せず、あくまでブレーンストーミング的なひとつの意見として提示するのである。
よし、これならよさそうだ。これでいこう。
だが、まったく笑えなかった。自分でも、顔が引きつったようにゆがんだだけだというのがわかる。
強い不安が、胸にわだかまっているのを感じた。
「どうしたの、公平くん。顔が真っ青よ」
不審げに、桐子さんがいった。目つきに、さきほどのような剣呑さはない。どちらかというと、心配されているような雰囲気である。
「あの、桐子さん」
「そもそもあなた、カウンセリングがどんなものか知ってる?」
だだをこねる子供をなだめるような、どこか困った感じの口調だった。言われて、僕自身もとまどいをおぼえた。
たしかに、僕は『精神を健康にたもつために専門家のカウンセリングが役にたつ』と漠然と考えてはいたが、具体的にどういうことをするのかというと、よくわかっていなかったのである。
「英単語の意味を直訳すれば、相談とか助言――ようするに、ひとに悩みを話して、なにか言ってもらうことで判断の助けにしたり、安心したりといったことよね」
いくぶんゆっくりめに、桐子さんは考えをまとめながら話しているようだった。
「たとえばわたしは、仕事柄、顧客と相談をすることがよくあるわ。ファッションを通じて、どう自己表現したいのか、前向きな気持ちになれるためにはどうすればいいのか。そういうことを、いっしょに考えていくの。これだってカウンセリングの一種なのよ」
「相談、ですか」
こちらの相槌に、桐子さんがこくりとうなずきをかえした。
「もちろん、そこは専門的な知識に基づいた内容だから、親や友人に助言をもらうのとはまた違うんだけど……。でもね、相談であることにはかわりないの。原則的には、本人が問題を感じていなければ意味はないし、まして他人に説得されて受けるようなものでもない」
そうして『ただし、心理療法としてのカウンセリングは、DVなどの実害を受けている側の人間が必要にかられて、無理やり受けさせようとする事例もあるらしい』ともつけくわえた。
「かばったりしなくていいから、正直に答えてもらえるかしら。あなた、娘からなにか害になるようなことをされたりした?」
どうやら、桐子さんはこちらとは違う方向に気を回してしまったようである。その問いかけに、僕はあわてて首をよこにふった。
「めっそうもない、彼女には、ほんとうによくしてもらっています。ただ……」
「ただ?」
じつのところ、自分がなぜカウンセリングなどと言い出してしまったのか、理由は、はっきりと自覚できていた。とはいえ、それは余人に語れることではないのだ。なかば以上に妄想のようなものであり、だれかに話せば、それこそ僕のほうが精神科に行けといわれるようなことである。
「人形に『お母さん』と名づけているという話をされたときは、僕もあわてていて、どういう顔をすればいいかわからなかったんですが……。その際、こころは怯えた感じで、自分は頭がおかしくなったりしていない、というようなことを言い出したんです」
なんとか、話せる理由をひねりだすことができた。あるいは、思い出すことができたというべきか。いちおう、あのときに、そういうことを考えたのは事実である。
「ちゃんと、この子が人形だとわかっていて、たんにそういう名前をつけているだけだと、すごく必死な感じで言ってきて……。これはなんていうか、本人が自分の精神状態に不安を抱いている証拠なのではないのかなと」
「ふうん……」
腕組みをして、桐子さんがなにごとか考えに沈んでいる。こちらもそれ以上のことは言えず、僕たちはふたりして、しばしのあいだ黙りこんだ。
「こういったらなんだけど……。わたしは、公平くんの考えすぎだと思う」
悩ましげに、桐子さんがいった。
「不安そうにしていたっていうけど、それはあの子があなたを信用して、自分の気持ちをぜんぶ吐き出したからそう見えたってだけのような気がするわ」
ようするに、彼氏に甘えてみたってところね。そういって、桐子さんは笑みをうかべた。
「もっとも、あなたの意見はこちらにとっては伝聞でしかないし、わたしも娘から直接、話をきいて、判断はしてみるつもりよ。それと、公平くんがその状況で、引いたりしないであの子に向きあってくれたことについては、お礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
「そ、そんな」
恐縮して、僕がうつむくと、桐子さんは口調を真剣なものにあらためた。
「いいえ、あなたがそこで引いていたら、たぶん娘はひどく傷ついた気がするから。あの子にとって、公平くんはもう、そういう存在になっていると思うの」
それだけいって、ふたたび自身の紅茶のカップを手にとった。
軽く一息入れるつもりなのかもしれない。僕も、自分のコーヒーの残りを喉に流しこんだ。すっかりとぬるくなっていた。
「娘の身に起こったこと、だったわね」
つぎに桐子さんが口を開いたのは、のこっていたケーキの皿を空にしたあとだった。
「はい。聞かせてください、桐子さん」
「いいわ、教えましょう。十二年まえ、あの子の身になにが起こったのかを」
落ちついた様子で、桐子さんがいった。十二年まえ――当時五歳、僕と幸が出会った年だ。なんとなく、そう思った。