第百九十三話 九月十五日(土)夕方 桐子との食事 2
さすがに、桐子さんも態度がおとなげなかったと反省したのだろう。食事中の会話は、ごく平穏なものだった。学校のことを中心に雑談をしたし、文化祭での協力については、クラスメイトに代わってお礼もした。
本題にもどったのは、料理を平らげてのち、食器をさげに来たウェイトレスに、ドリンクとデザートを注文してからだった。
「じゃあ、そろそろ話の続きにしましょうか」
相手の言葉に、僕はうなずきをかえした。
率直に言えば、表面上の談笑はできていても、さきほどおぼえた不快感は拭えていなかった。
もちろん桐子さんは、僕がすでにこころの火傷あとを見ているとは知らないのだから、やりとりに齟齬が生じてしまったのはしかたないという面もある。それに、彼女自身の母親としての気持ちを考えてみても、じつの娘が他人から虐待を受けたのである。そんなもの、思い出したくもない過去であるのに決まっているわけで、話をしたがらないというのは理解できる。
だが現状、こころの傷が完全に癒えていないのに、問題から逃げようとしてもらってばかりでは困るのだ。こちらだって、必死である。つまらない勘違いでお茶を濁されて、事態を保留にするわけにはいかなかった。
ともあれ、相手はこちらの発言をまっている。僕は用意してきた話、こころの奇行と『お母さん』についての真相を聞かせることにした。
「以前、そちらからのメールで教えていただいたことですが、おぼえておられますでしょうか。あのあと……いまからほんの数日まえのことですが、くだんの『お母さん』がなんなのかが、判明したんです」
じっと、桐子さんが僕を見つめている。相槌などはなかった。
「それは、こころがかわいがっている人形です。彼女の部屋の、枕元に飾ってある」
いったんそこで区切り、僕は桐子さんの様子をうかがってみた。
思ったほど、これという反応がない。こちらの言っていることがよくわかっていないのか、それとも疑っているのか。僕はふたたび、強い苛立ちを感じた。
「こころは、あの古くてツギハギだらけの人形を『お母さん』と名づけて、なにか問題が起こったときの言い訳に使っていたんです。その理由は……」
そこまで言ったところで、僕は一瞬、続けるのをためらった。強すぎる言葉を使おうとしている自覚があったからだ。
しかし、つかのまの逡巡ののち、胸中の苛立ちに押されるように、僕は口を開いていた。
「実際の母親である桐子さん、あなたを、こころが信用していないからです」
そして、いちど吐きだしてしまうと、あとはもう歯止めが利かなくなった。
「自分が苦しんでいたとき、母親はなにもしてくれなかったと、こころは言っていました。虐待を受けていたときに、人形が身代わりになって……切り刻まれて、守ってくれたのだと。彼女はいまでも、そう信じているんです」
ところが、だった。
ここまで言ってもなお、桐子さんは目立った反応をしめさなかったのである。これほど衝撃的な話を聞いておいて、動揺のひとつもしないなんて、このひとはほんとうに母親なのか。
しらず、僕は拳をにぎりこんでいた。テーブルをドンと叩きたい気分だった。
「……知っているわ」
「え?」
ぽつりと、つぶやくようにこぼれた相手の言葉に、僕は虚をつかれたような気分になった。
「公平くん、その切り刻まれた人形をつくろって、もとの形に修復したのはだれだと思う?」
そういって、桐子さんはどこか自嘲ぎみにくすりと笑ったあと、テーブルの外に、そっと手をかざした。
「当時、こんなにちいさかったあの子がね、自分の半分ぐらいの人形をだっこして『守ってくれてありがとう、お母さん』っていったのよ。となりに、わたしという母親がいたのに」
ふうとため息をついて、桐子さんは手をもどした。
「一年よ」
額を指で押さえるようにして、頬杖に似た姿勢をとった。
「事件があってから一年ものあいだ、あの子は笑わなかった。泣きもしなかった。ただぼんやりと、どことも知れない場所を見つめていただけ。そうして、ときどき人形に話しかけるの。『お母さん』って」
ごくりと、僕は唾をのみこんだ。
わかっていたつもりではあった。しかし『事件』とあらためて言われると、その深刻さに身震いがする思いだった。
虐待と一口にいっても、ドメスティックなものではない。しかも、一生のこりかねない傷がのこるレベルなのだ。こころは幼少期に、いわば『暴行傷害事件』の被害にあったのである。
さらにもうひとつ、事態を甘くみていたのは、桐子さんではなく、僕のほうだったのかもしれないという気すらしてきた。
仕事があるとはいえ、桐子さんは、こころと毎日一緒に暮らしてきたひとだ。精神が壊れるほどの暴力を振るわれた娘が、いまのように、とりあえずは平穏に日々を暮らせるまで回復する、その過程を乗り越えてきたのである。
いくら当人から心情を告白してもらったとはいえ、僕のほうが桐子さんよりもこころを理解しているというのは、考え足らずの思い上がりだったかもしれない。
「もっと……その、桐子さん。くわしいお話を、お聞かせ願えますか」
「交換じゃないの? あなたのもってきた情報は、すでにわたしが知っていたことだったわよ?」
ぐっと、言葉につまった。桐子さんは、目を細くしている。眉をひそめているのか、それ以外なのか、判断のつきにくい表情だった。
「でも、まあいいわ。じゃあ、いくつかこちらの質問に答えてもらったら、教えてあげましょうか。いい?」
「はい、かまいません」
どうにも居心地が悪いので、咳払いをひとつしてみた。黙ったまま視線をうごかしてさきをうながすと、桐子さんはおもむろに口を開いた
「まずは、あの人形を見て、あなたはどう思った?」
「どう……それは、なんていうかびっくりしました」
聞かれたことには答えたものの、質問の意図はいまいちよくわからなかった。
「遠目には普通でしたけど、間近で見るとツギハギとかがすごくて……。顔のまんなかにも、縫い跡がありましたし」
ふうん、と相槌をうち、桐子さんがうなずいた。笑っているような、しかし、なにか違和感をおぼえる表情である。
どちらかというと、腹に一物があるとでも形容したくなる表情だったが、はて? いまこの状況で、どうしてそんなふうに感じてしまうのだろう。
腑に落ちない気分のまま、それでもつぎの質問をまっていると、桐子さんはふっと遠い目をした。
「娘が小学五年生のとき――修学旅行の前日の話なんだけどね」
「は?」
唐突な、話題の飛びかただった。小学校時代の修学旅行で、なにか事件でもあったのだろうか。
「そのころには、もうあの子は、すくなくともわたしのまえで、人形を『お母さん』と呼ぶことはなくなっていたわ。だけど、家ではあいかわらず、いつもあれを腕にかかえていて、食事のときなんかには、ご飯をたべさせる真似をしてみたりもしてたの」
どうやら、桐子さんは、その時期のこころの思い出話をしたいようである。
食事を与える真似というのは、ままごとの一種かとも思える。僕も、幼かったころに、幸のそういう遊びにつきあわされたことは多々あるが、低学年までの話だ。
もちろん、こころが高学年になってもそれをしていたからといって、すぐにどうということにはならない。ただ、過去の虐待という事実を考えあわせると、残念ながら、子供っぽいというだけでは済ませられない問題を感じた。
「で、あんまりかわいがってるものだから、わたしも冗談めかして言ってみたのよ。いくら大事でも、修学旅行にまで連れてったらダメよ』って。そしたらあの子、なんて言ったと思う?」
「さあ……。わかりません」
桐子さんが、くちびるをゆがめている。形だけなら笑顔のはずのその表情が、僕にはべつのものに見えてしかたなかった。
「だれかにいじめられるかもしれないから、連れて行かない。そう言ったの。思い返してみれば、あの子は家のなかでは、人形を手放そうとしなかったくせに、外出にはいちども持って行こうとしたことがなかったわ。たまの家族旅行のときにすら、ね」
なるほど、それはこころらしいエピソードだな。
たしかに、僕が人形に触っていたときにも、こころはおびえたような顔で『ひどいことをしないか』と尋ねてきた。
さらにいえば、立花さんが、一時期こころと関係を悪化させてしまったのも、人形をいじめるフリをしたのが原因である。
おそらく、こころは男ばかりではなく、本質的に他人をこわがっているのだろう。僕や立花さんといった親密な関係に分類できる人間相手でも、人形をさわられるのだけは恐れていたのだ。
あるいは、本人のなかで、あの人形を安全だと信じられる場所に閉じこめておこうという意識が働いていて、それが、家のそとには出さないというタブーめいた行動につながっていたのかもしれないな。
――などと、僕がひとりで考えをまとめ、かってに納得しようとしているさなか、桐子さんはふいに、こちらがまったく想定していなかった方向に話をすすめはじめた。
「だから、娘があの人形を、そとに出すことは、絶対にないの」
言葉と同時に、桐子さんの視線が強いものにかわった。そこから読みとれるのは……怒りの感情?
「家から出ないものを、間近でじっくりと確認したということは、そちらがなかに入ってきたとしか考えられないわ。でも、わたしはあなたを二回、リビングにいれてあげたことはあるけど、そのときには娘の部屋に出入りしたりはしていないわよね?」
ああ、そういうことか、と思った。
この発言で、彼女の態度が不審な理由が、ようやくわかった気がした。
「となると、こちらの知らないあいだに、娘があなたを招きいれたと解釈するしかないのだけど……。ねえ、公平くん。好きあってる若い男女が、ひとつ屋根のしたでふたりきりになって、なにもなかったと考えてあげられるほど、わたしは物わかりのいい親じゃないわよ」
具体的に、どの発言のせいでかはわからない。だが、桐子さんは、話をしているうちに感づいたのだ。そしていま、たぶん確信をもって、確認をしようとしてきている。僕とこころが、それまで以上の深い関係をむすんだことを。
「おっしゃるとおり、桐子さんやほかのだれもいない、こころとふたりだけのときに、お宅におじゃましたことがあります」
もっとも、ここでごまかす必要はない。僕は正直に答えた。
「高校生としてふさわしい関係にとどめなさいと、釘を刺しておいたはずよね。忘れた?」
口調の棘を隠さずに、桐子さんがいった。
「おぼえています。忘れてはいません」
「言い訳があるなら言いなさい。聞いてあげるわ」
にらみつけるような、剣呑な目つきだった。しかし、僕はそれを真っ向から受け止めた。怯むつもりなど、毛頭なかった。
「僕はこころに対して、世界中のだれにも、恥じるようなことはしていません。誓えます」
きっぱりと、断言した。とたんに、桐子さんが露骨に顔をしかめた。
「信用しろというの? それを」
目はそらさずに、うなずきだけを返した。
恋人と愛しあうことは、恥ずかしいことではない。たとえそれが、世間的に許されないことだろうと。だから僕は、そのことを桐子さんに誓える。そこに、ひとかけらのウソもない。
詭弁だとは、自分でもわかっていた。それでも、あとに引く気はなかった。さきほど感じた負い目は、あくまでも言いつけにそむいた部分についてであって、ほかのことは関係ないのだ。
もし、それが気に入らないというなら、ぶん殴られたってかまわないと思った。写真で見たあの細マッチョな親父さんに、どれだけの腕力があるかはわからないが、無抵抗でボコボコにされてやってもいい。
だけど、どんなに反対されても、たとえ骨の一本や二本折られても、こころと付き合うのはやめない。セックスだってする。
決意を強くしつつ、じっと桐子さんの目を見つめつづけていると、やがて、相手の視線に困惑の色がまじりはじめた。
「なんだか、やけに堂々としてるわね」
いって、桐子さんが片方の眉をあげた。
「質問のしかたが悪かったのかしら。どう解釈すべき返答かしらね、これは」
「お好きなように捉えていただいてけっこうです、桐子さん」
彼女は、いったん視線をテーブルに落とした。そうして、なんどめかのため息をつくと、すぐにふたたび顔をあげた。
「あなた、娘ともう……ううん、やっぱりいいわ」
表情は、すでに苦笑めいたものに変わっていた。
「あの子が、ほんとうに好きになった男の子だものね」