第百九十二話 九月十五日(土)夕方 桐子との食事 1
ホテルを出ると、まだ外は明るかった。僕はそのまま、こころを自宅まで送り届けることにした。
寄り道などはしなかった。それでも、恋人と軽くキスをして、マンションをあとにするころには、あたりはすっかり暗くなっていた。
つるべ落としという言葉があるとおり、陽光が赤くなったと思ったら、あっというまだったのである。もう、夏ではないということなのだろう。気温も、ほんの数日まえと比べて、だいぶすごしやすいものになっていた。
ともあれ、つぎは桐子さんとの待ちあわせである。走ったりする必要はないにしても、相応にいそいで商店街にむかわなければならない。
移動の途中は、なかばぼんやりとした気分だった。歩調だけは変えなかったものの、頭のなかではずっと物思いにふけっていた。
内容はおおむね、これから桐子さんに話すべきことである。もっとも、そればかりとも言い切れなかった。
現状、自分の将来といった迂遠なものから、委員長や黒田との関係といった卑近なもの、さらに、あすかという超常的な存在についてのことまで、問題は山積みなのだ。
隣にこころがいるときは、あまりこういったことを深く考えたりはしない。だが、恋人の姿が視界からなくなったとたん、漠然としたものが、麻酔の切れた歯痛のように、どこからともなく頭をもたげてくるのだ。それらは僕を苛立たせ、荒々しい気持ちにさせた。
ふと気がつくと、目のまえは横断歩道で、信号が赤になっていた。
たかが、長くて数分たらずの待ち時間である。なのに、足止めを食らわされたという事実に、僕は柄にもなく強いむかつきを感じた。
周囲に人影はない。衝動に押されるまま、僕は信号機の柱の根元あたりを、思いきり蹴りつけた。
金属質な音がひびき、爪先にかなりの痛みがはしった。それでようやく、いくらかの冷静さをとりもどして、僕は『なにをやってるんだよ……』と自分に毒づいた。
その瞬間だった。
「おわっ?」
いきなり、爆音とともに、目のまえを真っ赤なものが通り過ぎていったのである。驚きのあまり、僕は思わず後ずさりをしてしまっていた。
いまのは、車だった。あきらかに、と強調表現をつけ加えるのもバカらしいほどに、制限速度をオーバーしている。
ちかくに来るまではとくに意識していなかったが、思い返せばひどい騒音も聞こえていた気がするので、なにか改造でもほどこしていたのだろう。
まったく、マナーの悪いドライバーだなあ。
そんなことを考えて、舌打ちをしかけた。そこで、たったいま憂さ晴らしのために、信号機を蹴りつけた人間がいえるようなことでもないことに気づいて、僕は苦笑した。
信号が青に変わるのをまって、ふたたび歩きはじめた。商店街は、もう目と鼻のさきである。
ほどなく、入り口のアーチの姿が見えてきた。
夕方のこの時間ということで、商店街にはたくさんのひとが出入りしている。そのわき、アーチの柱からすこし外れたところに、シャツとズボンというラフな格好をした、小柄な中年女性がたたずんでいるのが目にはいった。
なんとなく、その場で軽く頭をさげてみると、むこうもこちらに気づいたようで、つかつかというふうに近づいてきた。やはりと言うべきか、待ちあわせの相手でまちがいなかったようである。
「こんばんは、公平くん」
「およびたてして申し訳ありません、桐子さん」
挨拶をすませ、僕たちはさっそく、手近なファミレスへとむかった。桐子さんの先導だったが、店選びにとくだんのこだわりがあるようには見えなかった。近くにあって、すぐに座れそうだからそこにした、という感じである。
店員の案内を受けて席につくと、桐子さんが僕にメニューを手渡してきた。
「好きなもの、たのんでいいから」
「どうもありがとうございます」
適当に、料理名を伝えると、桐子さんはすぐにウェイトレスを呼び、ふたりぶんの注文をしてくれた。店員が見えなくなるのをまって、おもむろにこちらに向きなおった。
「娘のことで、大切な話があるそうね」
柔和さのなかに、真剣なものをのぞかせている。桐子さんの視線に気後れをおぼえ、しらず、僕は目を伏せてしまった。
「はい。……その」
たっぷりふた呼吸おいてから、事前に用意しておいた言葉を口にした。
「立花禰子さんを、おぼえておられますか?」
いきなり、関係なさそうな名前が出てきたことで、気勢をそがれたのか、桐子さんは怪訝そうな口調で聞き返してきた。
「ええと、娘の友だちの、あの子でいいわよね? 二ノ宮に住んでいたとき、よくうちに遊びに来ていた」
だまって、頷きをかえしてみせた。
以前、こころの火傷あとについて、委員長と話しあったとき、言いかたをまちがえて、直接それを見たと――ありていにいえば、肉体関係をもったと――誤解されてしまったことがある。そのことが頭にのこっていたので、怪しまれないようワンクッションを置くために、立花さんの名前を出してみたのだ。
もちろん、こんなことは友人同士であれば、笑って済ませられる程度の勘違いでしかない。しかし、恋人の母親が相手となると、話はべつである。とくに、実際に関係をもったいまとなっては、うかつにそういった気配を見せるなど、もってのほかだった。
「先日、その立花さんと会って、話をする機会がありました。そこで、こころの背中に古い火傷のあとがあると教えてもらいました」
「そう……」
沈んだ声だと思ったが、顔をあげて相手の顔を見ることはできなかった。
自分のなかで、桐子さんにたいし、たしかな負い目が存在しているのを感じる。彼女の言いつけにそむいて、僕はこころと、高校生としてはふさわしくないレベルの関係をむすんだのである。
こちらとしては、そこにどんな問題があるとしても、恋人の深いところまで触れてしまいたかったからそうしたのだと、言ってしまうことはできる。僕はこころを愛しているし、なにがあっても不誠実な対応はしないと決心している。
しかし、親の立場からすれば、そんな理屈が許せるものではないということも、理解しているつもりだった。
「ほかに……。その火傷のあとが、過去に、だれかから虐待を受けたせいでできたものだという話も聞きました。それで僕は、子供のころのこころに、どんなことがあったのか、教えていただきたいのです」
うつむきがちの姿勢のまま、そう言った。すこしだけ視線をあげて伺うと、桐子さんは氷水のはいったグラスを傾けているようだ。話すまえに、喉をしめらせておきたかったのかもしれない。
だが、彼女がグラスを置いたところで、なぜか、ふうというため息にも似た声が聞こえてきた。
「そんなことを聞いて、どうするつもり?」
こんどは、僕のほうが怪訝さを感じる番だった。
「もしかして……公平くんは、体に火傷あとがある女の子を彼女にしているのは、イヤなのかな?」
桐子さんの口からこぼれ出た言葉は、僕にとっては思いもよらないものだった。
「たしかに、あなたの言うとおり、娘の体には他人から振るわれた暴力の爪あとがのこっているわ。でもね」
どこかしら呆れを含んだような、この場にはあまり似つかわしくないと思える口調で、桐子さんはつづけた。
「たとえあなたが真相をしったとしても、あの子から、その火傷あとがなくなったりすることはないのよ。それどころか、どんなに時間がたっても、完全には消えないものなの」
相手の言わんとしていることを理解するのに、数瞬の時間がかかった。そしてわかったとたん、僕はかっと顔が熱くなるのを感じた。
おいおい、待てよ。
なんだよそりゃ。ここでどうしてそんな話になるんだ。
彼女は――桐子さんは、僕がこころの背中に傷があると聞いて、それがどんなものか気になって、探りをいれに来たと勘違いしているのだ。そして、プライバシーだからむやみに詮索するな、と釘を刺そうとしている。
ひとを馬鹿にしているのか、と思った。僕はそんな、興味本位なんかで話を聞きに来たのではない。こんごのことを考えるうえで、必要な情報の共有をするためにここに来たのだ。
ところが、つぎの桐子さんの発言は、僕をさらに、ピンポイントで激昂させるものだった。
「まあ、好きになった女の子に、じつは醜い火傷のあとがあった、なんて話を聞かされたら、あなたにとってはすごくつらくて、不安なことなのかもしれないわね」
こころのどこにも、一箇所たりとも、醜い場所なんてない。
まして、僕がつらいだの悲しいだのと、いまこの場で言うようなことであってたまるか。
ほんとうに、このひとはなにを言っているのだ。親のくせに、自分の娘がどんな気持ちでいるのかを、まったく理解していない。
それでも、沸きあがってくる怒りの感情をどうにか押し殺して、僕は顔をあげた。じっと、桐子さんの目を見据えた。
淡々とした表情である。彼女はなにか作業でもするかのように、くだらないお説教もどきの言説を、僕に押しつけてきていた。
「だけど、一番つらいのは、自分の体に傷がのこってしまっているあの子のほうなの。あなたが彼氏としてするべきことは、こんなふうに相手の親を呼び出して、あれこれ聞き出そうとすることじゃないでしょう? こういう部分には触れないことこそが、ほんとうのやさしさと言えるんじゃないかしら」
「まってください、桐子さん」
耐えきれなくなり、相手の言葉に口をはさんだ。落ちつけと、自分に言い聞かせながらだったせいか、普段よりいくぶん低い声がでてしまった。
「火傷自体がどうこうとか、そんな次元の話をしに来たんじゃないんです。こころが傷ついているのは、外面のことじゃなくて内面の、もっと精神的な部分です」
ぴくりと、桐子さんの眉がうごいたような気がした。
「あなた……。そこまでわかっているのなら、なおさら本人が話してくれるのを待てばいいだけのことでしょう。付き合ってる相手の母親に、コソコソ質問するのはおかしいわ。やり方が卑怯よ」
だから、なんでそうなるんだよ。ちがうだろう、それ。
「ちゃんと、本人からも聞いていますよ。卑怯っていうなら、桐子さんだって、まえにメールをくれたじゃないですか。『娘がかわったことをしたら知らせてほしい』って。あれだって似たようなものでしょう」
売り言葉に買い言葉だった。話の内容が、言いたいことからズレてきていると自分でも思ったが、一度くちびるから離れた発言を取り消すことはできなかった。
「思い違いをしているみたいね、公平くん」
ムっとしたように、桐子さんが眉根をよせた。口調も、冷ややかなものに変わった。
「わたしはあの子の母親、つまり『保護者』よ。あなたに協力を求めたのも、責任のある立場の人間として、当然、必要なことだったから。公平くんがいまやっていることと、それを一緒にされたら困るわ」
屁理屈にもほどがあると思った。
あのメールは、どう考えても、親の責任というような大義名分のあるものではないだろう。だいたい、桐子さん自身がほんとうにそう思っているなら、こちらが協力をこばんだときに、謝罪などしなかったはずだ。
むしろ、保護者としてきちんとやれていないという自覚があったからこそ、ああいう申し出をしてきたんじゃないのか?
つい、そんな益体もないことを考えかけた。しかし、さいわいなことに、思ったことをそのまま口に出すまえに、なんとか自分をおさえることができた。
いけない。僕はアホか。こんなことをいくら言いあったって、相手と喧嘩になるだけではないか。恋人の母親と関係を悪化させてどうする。
とにかく落ちつけ、冷静になれ。
ようするに、だ。桐子さんは僕に、こころの過去を教えたくない、言いたくないということなのだろう。それならば、いくらでもやりようはあるはずだ。
いったん、僕は自分のグラスの氷水を喉に流しこみ、頭と体を冷やすようにつとめた。それから、あらためて桐子さんの目を見つめ直した。
「……べつに、ただで教えろとはいいませんよ。こちらは桐子さんの知らない情報をもっています。それと交換ということでどうですか」
「情報?」
もともと、今日の会合は情報の交換をするためのものである。相手に教えてもらうのならば、こちらから話すのがあたりまえだ。
というか、よくよく考えたら、はじめに一方的に話を聞きにきたようなことを言ってしまったのが、変に噛みあわなくなってしまった原因だったのかもしれないとも思った。
「約束してください。僕が情報を教えたら、そちらも話を聞かせてくれると」
「ふうん……。そういうことなら、考えてあげてもいいわね。でも、さきに食事にしましょう。料理が来たみたいだし」
言われて振り向いたのと、盆を手に持ったウェイトレスが僕の背後を横切ったのは、ほとんど同時だった。