第二十話 四月九日(月)黄昏 2
「ご、ごめん、ちょっと、は、はなれてもらえないかな」
相手の気分を害さないよう、遠慮がちにいってみた。
見ずしらずとはいえ、女の子に抱きつかれるのは、けっして嫌なものではないはずである。しかし、この子の場合は、すこし違っていた。
とにかく、寒いのである。体温が異常に低いのもそうなのだが、ともすると、こちらの熱がうばいとられていくような、そんなうす気味の悪い感覚があった。
「……うへぇ。せっかくこっちが勇気をだしてるってのに、この男ときたら」
抱きつく力の強さにも、僕はとまどっていた。
いちおう、幸にはときどき抱きつかれたりすることがある。だが、それはじゃれつかれているというていどのもので、女の子から、これほど熱烈な抱擁を受けたのは、はじめてのことだった。
ふいに、すっと力がぬけ、あすかが僕からはなれた。
うしろ手を組んで、彼女はほほえみをうかべている。さきほどの、悲しい瞳が嘘だったかのような表情である。
街灯が、スポットライトのように、あすかを照らしていた。
色白な子だ。なんとなく、僕はそう思った。
「で、君はなんなの?」
「アタシ、ユーレイ」
あすかがいった。僕はぽかんと口をあけてしまった。
優麗、じゃないよな。かわいらしい顔をしてはいるけど。ユーレイっていうと、あれか? 幽霊……え? それって、ヒュードロドロとあらわれて、足がなくて、……いや、ある。この子には、ちゃんと足があるじゃないか。
ふむ、裸足だ。靴も靴下もはいていない。
まて、ちがう。考えるべきポイントはそこではない。ええと、まずは落ちついて、状況を整理しよう。あすか本人は、自分を幽霊だといっているが、べつに透けたりはしておらず、ちゃんと抱きしめた感触があった。にもかかわらず、体はひどく冷たかった。そう、あれはたしかに生きている人間の温度では……。
そのとき、ふと、僕は自分の膝が笑っていることに気づいた。
理性ではなく、体のほうがさきに、目のまえの女の子が人間ではないことを理解してしまったらしい。
震えが、全身にひろがりはじめた。
こわい。
どうしてそう感じるのか、いまいち判然としないままに、僕は怯えていた。
「あっ、そんなに怖がらないで。アタシ、べつにあんたに取り憑いてどうこうしようってわけじゃないから」
あわてたように、あすかがいった。だが、すぐに小首をかしげてつけくわえた。
「ん? 取り憑くのは取り憑くのか……。でも、だからって悪いことはしないよ。これ、ホント」
くだけた口調である。どうも、彼女の喋りかた、あるいは雰囲気が、幸に似ている気がする。
そう思ったら、ほんのすこしではあるが、恐怖感が薄らいできた。あるいは、心の余裕を取りもどせたというべきか。
いずれにせよ、幽霊といわれて、すぐに『ハイそうですか』とは受け入れられない。それに、正体みたり枯れ尾花という言葉もある。恐怖を克服するには、対象を理解することが一番だ。
そこで、僕は相手に、詳細をたずねてみることにした。
「ほほ、ほんとうに幽霊? たしかに、体はものすごく冷たかったけど」
声が裏返ってしまった。うわ、みっともねえ。僕は心の中で自分に毒づいた。
「冷たい? ……ああ、そっか。なるほどね」
はて? いったいなにがなるほどなんだろう。あすかは得心いったとでもいうように、ひとりでしきりとうなずいている。
「あのさ、アタシ、こっちの世界の物理的な存在じゃないんだわ。公平の脳に直接はたらきかけて、姿を見せてるし感じさせてるの」
と思ったら、彼女はこんどはぴんと人差し指を立てて、いかにも『解説しよう』という感じで事情の説明をしてくれた。
「いま、公平がアタシの体を冷たいって思ったのは、たぶんあんたの脳が、人間の死体を冷たいもんだと認識しちゃってるからだね」
ふうん、脳に直接ねえ。
「えっと、それって、僕が幻覚を見ているってこと?」
「そんなとこ。だから、アタシと話すときは、おおきな声はださないほうがいいよ。ほかのひとには、あんたがひとりごとを言ってるようにしか見えないから」
つまりなにか? 僕はいま、はた目には街灯にむかって話しかけている状態だと?
「念のために聞いておくけど、霊能者とかにも見えない?」
「霊能者ぁ? そんなのインチキだよ。信じちゃダメ。アタシの姿が見えるのは、公平だけなんだから」
腰に手をあて、あすかが胸をそらした。俗にいうふんぞりかえるのポーズ。えっへんとでもいいそうな感じの態度だが、どこがどうえっへんなのか、よくわからなかった。
「精神科にいって、治療を受けることにするよ」
「ちょ、公平は病気とちがう! 治療するなぁ! ……マジで、話を聞いてよぉ。頼みがあんだからさあ」
話を聞けって、よくいうよ。こっちが苗字を質問しても答えてくれなかったくせに。
――つい、苦笑をうかべかけ、そこで気づいた。あすかと、ごくふつうに話せている。というより、怖いという感覚が、急速に希薄になりつつあった。
本人の、親しげで飾りけのない態度にくわえ、会話のノリがつかめたからかもしれない。親近感がわくというか、みょうに喋りやすいのである。
それにしても、頼みときたか。幽霊とはいえ、相手は女の子であるし、生き血を吸わせろとか、そんなたぐいのことでもなければ、聞いてあげてもよさそうだ。