第二話 四月八日(日)夕方 1
しかし彼女、宇佐美幸は、そのあたりのできごとをまちがっておぼえているようだった。
なんでも、むこうの記憶によると、お礼の品物が用意できなくて泣きだしたのは、僕のほうだったらしい。それで、見かねた幸が『おれいにともだちになってください』と申し出て、お返し合戦は両者痛み分けになったのだとか。
やれやれ、それではまるっきり逆になってしまうではないか。だいいち、男の僕が、そうに簡単に泣くはずがないだろう。とんでもない記憶ちがいもあったものである。
――市営公園の屋根つき休憩所で、日かげのベンチに腰かけながら、そんなことを考えていた。
夕焼けのだいだい色が、あたりを染めている。桜の花びらが、そよ風にふかれて舞っていた。
春休み最後の日である。課題などは、とうのむかしにおわっている。しかし、僕にはほかに、今日のうちにやっておかなければならないことがあった。
もっとも、ほんとうに今日でなければならないかといえば、そういうわけでもない。ただ、あすから学年があがり、あたらしい年度がはじまる。そのことが、きっと僕に勇気をあたえてくれると思ったのだ。
買い物という口実で、待ちあわせの約束をした。あとすこしで、幸がここにやってくる。
十八年まえ、冬の時期に女の子が生まれてくることを知った彼女の両親は、その子に『幸』という文字と、季節の風物詩にちなんだ『ゆき』という発音の名前をあたえた。
名前にこめられた願いの大半は、すでにかなえられている。いつだか、彼女がそんなことをいっていたのを、ふと思いだした。
僕の大切な幼なじみであり、そして初恋の相手でもある年上の女性、幸。
これから、僕は幸に、自分のありのままの気持ちをつたえなければならないのである。
「やあっほーい。こーへーぃ」
聞きなれた声がひびいた。
ついに、幸があらわれたのである。公園の表口に、手をふっている彼女の姿が見える。
そのまま、幸は早歩きで休憩所までわたってきた。いつものようにつば広の帽子をかぶり、日傘をさし、紐でゆわえたオペラグラスを首からさげていた。
「あぁ、そのままそのまま」
立ちあがろうとした僕を手で制し、幸はベンチのすぐそばまで寄ってきた。
「すわる?」
ならんで腰かけたいのかと思い、僕はすこし尻をずらした。しかし、どうやらそういうことでもなさそうである。
「つうかさぁ、公平、去年からすげー背がのびたっしょ? 最近あんたとならぶと、見あげなきゃなんないから首がこんのよ」
ようするに、こちらがすわっている状態なら、話しやすい位置に顔がくるとでもいいたいのだろう。いまでも、幸はちいさな女の子なのだ。身長差は、かるく頭ひとつ半ぐらいはあった。
「ふうん……。じゃあ、このまますわっていることにするよ」
いってから、僕は内心で、みょうな違和感をおぼえた。
はて? ここでのこの返しは、なにかちがう気がするのだが。
そもそも、幸が僕のことを見あげて話をするようになったのは、最近のことでもなんでもない。これはただのネタふりである。そう、ふだんなら、むこうが小柄なことをからめた軽妙洒脱な会話を繰りひろげているべきところなのだ。
いけない、どうやら僕は緊張しているらしい。自分でも固くなっているというか、そこはかとないぎこちなさを感じる。
まあ、むりもないか。なにしろ、十年以上もつづいた幼なじみから、あたらしく恋人へと昇格するための、いわば試練に挑もうという場面なのだ。
ともあれ、冷静に会話をつづけなければならない。告白をするにも、ごく自然な流れというものが必要である。
「どったん、公平? ぼっとして」
「いや、その……。幸、元気? つかれてない?」
こちらの返事に、幸はきょとんとしたように目を見ひらいた。
しまった。うっかりした。なにを口走っているのだ。いつもなら、こんなことは絶対にいわないのに。
「ほえ? ……課題も、新学期の準備も、はやめにすませておいたし、つかれるようなことは残ってないよ? だいたい、元気じゃなかったらここまでこないしさ。つうか、公平こそだいじょうぶ?」
なかばあきれたような顔をされた。
そりゃそうだと思った。幸は、意味もなく病人あつかいされることを好まない。こうしてこの場にいるということ自体、元気だということの証左であり、気遣いは無用なのである。十年以上も幼なじみをやっているのだから、そのぐらいはわかっている。
まったく、僕はアホか。なんでこれから愛の告白をするというときに、相手を呆れさせるようなことをしてしまうかなあ。
「え、ええと、あの、その、なんというか」
まずい。緊張していることを意識したせいか、顔に血があつまってきた。ほほが熱い。頭がくらくらする。喉の奥がいがらっぽい。
どくどくどくどくどくどくどくどく。
まて、心臓よ。はやく動きすぎだ。もっとゆっくりにしろ。否、いっそとりあえず止まれ。
「なあ、公平?」
幸が、こちらの顔をのぞきこんできた。透きとおるような赤い瞳。銀色の短髪と白い肌。
ああ、ほんとうにすてきだなあ。ずっとまえからそう思っていたけど。好きなんだ。大好きなんだ。僕の恋人になってほしいんだ。
「公平ってば。ほんとに様子がへんだぞぉ? 熱でもあるんじゃない?」
深呼吸だ。深呼吸をしよう。すう、すう、すう。しまった、息の吐きかたが思いだせない。
膝がふるえてきた。いつもこうだ。本番に弱いんだ。こんなヘタレでは、愛するひとを守るなんておぼつかない気がする。むしろ、絶対にむりにちがいない。よし、あきらめよう。幸には、もっと沈着な強い男がそばにいるべきだ。
違う。僕はアホか。このごにおよんで、怖気づくな。落ちつけ。まずはどうやって息をはくのかを思いだせ。
「えい」
「あっ」
突然、体を引きよせられた。頭をかかえこむようにして、幸が僕を抱きしめてきた。
「もしかしてさ、公平、なんか悩みでもあるのん?」
甘いささやきが、耳朶をくすぐった。幸のやさしい声だった。その瞬間、僕は呼吸の方法を思いだし、同時に膝のふるえもとまった。
「ほぉら、なんでも聞いたげるから、いってごらん。アタシはいつでも、あんたの味方だよ」
上衣の厚い布ごしに、幸の鼓動がかすかにつたわってきた。その音を聞いていると、どんなことでもやれる気がした。
「ずっと……。ずっとまえから、幸のことが好きだったんだ」
なのに、結局、いえたのはそれだけだった。
今日のために用意した口説き文句も、幸の気を惹くために考えた褒め言葉も、なにもでてこなかった。
つかのま、幸はうごかなかった。僕の頭を胸に押しつけたままの姿勢で、かたまっていた。
いまのうちに顔をあげよう。告白は、相手の目を見てするべきだ。そう思ったが、僕もうごけなかった。
「……うん。しってたよ」
つぶやくように、幸がいった。それから、確認をとるような口調で聞いてきた。
「本気?」
嘘であろうはずがない。いつから好きだったのか思いだせないほど、むかしから好きだった。告白したら、幼なじみという関係が壊れてしまうかもしれない。そんな恐怖と戦い、あらんかぎりの勇気をふりしぼったのだ。
でも、こうして抱きしめてもらわなかったら、きちんと告白できなかったかもしれない。情けないな。なんて情けない男だろう。
「心の底から本気だよ。嘘なんかつかない。愛してる。僕とつきあってください」
抱きしめられたままでいった。
「気持ちを疑ってるんじゃないって……」
ため息まじりに、幸がいった。
「あのさ、公平。アタシが断ったら、どうするつもりなん? 告白しちゃったら、もうただの幼なじみにはもどれないかもしれないのに。そしたら、気やすく抱きついたり、キスしたりできないんだよ?」
すぐに、返事をすることができなかった。それだけじゃ、足りないんだ。好きだから。
「我慢できなかったん?」
穏やかに、問いをかさねられた。母親が、好物をつまみ食いした子供をとがめるような口調だと思った。
「できなかった。どうしても好きだから。気持ちをしってほしかったから」
ふいに、押しつけられた胸からつたわる幸の心臓の鼓動が、すこしはやくなったような気がした。
もしかして、僕はいま気のきいたことが言えたのだろうか。幸の心を動かせたのだろうか。
「そっか……。我慢できなかったんだ。アタシなんかのこと、そこまで好きになってくれたんだ……」
声が、ふるえていた。
「ごめんな……。つきあえない」
それは、涙声だった。