第百八十九話 九月十四日(金)昼
昼休みである。僕は弁当箱を片手に、こころとふたりで急ぎ足に階段を降りていた。校庭にむかうためである。月曜の昼が、なかなかいい感じだったので、またあのベンチに座って食事をしたいと思ったのだ。
今日だけでなく、ここ数日はいつも、昼休みになるたびにベンチの空きを確認していた。
もっとも、人気のあるスポットということもあり、最初のとき以外はだれかしら先客がいたので、今回もそれほど期待はしていなかった。ダメモトというやつである。
「こーへいしゃん」
「ああ、イケそうだね」
どうやら、今日は一番乗りすることができたようだ。僕たちはベンチに腰をおろすと、すぐに弁当をひろげることにした。
食事中の会話は、とくに甘い方向にはすすまなかった。そういうのも楽しくはあるのだが、ふたつばかり、優先して聞いておきたいことがあったのだ。
「ジョルノのカップル割引券を?」
「うん、黒田たちに、半分わけてやれないかなと思って」
二度、三度。こころがまばたきをした。
「なんで?」
むう、なんでと言われると、ちょっと説明が面倒なんだよなあ。僕は内心で苦笑した。
じつは、ほかでもない、委員長についてのことなのである。どうも、文化祭がおわってからというもの、彼女に話しかけづらいのだ。
正確には、委員長本人はいたっていつもどおりの対応なのに、僕のほうが他人の恋人ということを意識してしまい、これまでのように気安くせっすることができなくなってしまったのである。
「あいつらさ、付き合っていることをまわりに秘密にしてるじゃない。まあ、そこは本人たちの自由だけど、こっちが知ってるのにナイショにされてるのって、すごくやりにくい感じがするんだよね」
だから、割引券をネタに『ふたりが交際していること』を黒田から聞き出し、こちらが知っているのを既成事実化してしまいたい。そう表むきの理由をつげると、こころは納得がいかないのか、不審そうに眉をひそめた。
「ふうん……。へんなこと、気にしてるんだね」
自分でも、まったくそのとおりだと思った。実際、当初は教えてくれないなら、それはそれでいいかぐらいに考えていたのである。まさか、委員長に『付き合っている男がいるのを秘密にされている』ということが、こんなに心理的負担になるとは、想像もしていなかったのだ。
もちろん、いまはただの友だちとはいえ、一時はまちがいなく惹かれていた女性である。さすがに口に出しては言えないが、そのあたりにほんとうの原因があるだろうということも自覚はしている。
いずれにしても、このままでは学級委員の仕事に支障をきたしかねないし、おおげさかもしれないが、こういうところから徐々に、せっかくの友人関係が疎遠になってしまうことだって、ありえないとは言いきれないのだ。
さらにいえば、友だちのありようという意味においても、こういう情報は共有しておいたほうが、なにか問題が起こったときに、フォローが効きやすいはずである。
たとえば、ゴーと大羽美鳩が喧嘩別れしたのも、周囲に秘密にしていたせいで、助けになるような人間がいなかった、というのが原因のひとつではなかったか。
なかば後付けのように、そんな理由をひねりだしてまで、とにかく僕は、交際の事実を、委員長や黒田とふつうに語りあえる状態にしておきたかったのだった。
「あの券は、ふたりでとったものだから……。こーへいしゃんが、半分をだれかにあげたいっていうのなら、こころはべつにかまわないよ」
安倍さんには、自分もお世話になっているし、お付き合いのお祝いにもなる。そういって、こころは笑ってくれた。やれやれ、これでひとつめの『聞いておきたいこと』はクリアできた。
聞いておきたいことは、しかしもうひとつある。どちらかといえば、こちらのほうが本題なのだが……。
食事をおえ、まったりとお茶を飲みはじめたあたりで、僕はこころに、なにげないふうを装いつつ質問してみることにした。
「あしたなんだけど、さ、こころ。桐子さんが家にいるかどうかわかる?」
すると、こころはなぜか一瞬、びくりと体をふるわせて、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
「どう?」
「えっと、えっと……。ま、ママは最近、週末にはお仕事を入れてないみたいだから、たぶん家にいると思う」
ほう、そうか。なら、あとでこっそりメールを送っておけば、会う約束ができそうだな。
昨夜、立花さんと話しあったことだった。僕は桐子さんに、こころのことを相談しようと考えているのである。
桐子さんには以前『娘が変わったことをしたら知らせてほしい』と依頼をされたことがある。そのときの僕は、それを断っていた。親心はわかるが、告げ口をするようで嫌だったからだ。
ところが状況が変わり、もうそんなことは言っていられなくなってしまった。残念ながら、僕ひとりで恋人の心の傷を癒すのには、この問題は重すぎる。男の誇りや独立独行の精神など、こんな場面ではなんの役にも立ちはしないのである。
正直にいえば、いまも抵抗は感じていないわけではなかった。だが、僕は周囲のひとたちといっしょに、こころをしあわせにしていくと決めたのだ。そのためには、桐子さんに情報を伝えることも、避けて通ることはできないと思っていた。
「でも、でもね、こーへいしゃん」
……おや?
はて、どうしたのだろう。こころがものすごく真っ赤になって、瞳を潤ませているぞ。
「ゆうべみたいに、うちに来てっていうのは無理だけど、こ、こーへいしゃんの部屋でとかだったら、その」
彼女が言っていることの意味。そして自分の発言のうかつさに気づくまで、たっぷり数秒。僕は本日二回めの激しい赤面をした。