第百八十七話 九月十四日(金)朝
明けて翌朝、目が覚めてすぐに、僕は全身を軽い違和感がおおっていることに気づいた。
いわゆるひとつの、筋肉痛というやつである。その事実は僕に、原因となるできごとについて、思いをはせさせずにはいなかった。
やれやれ。日ごろから鍛錬はしているつもりだったんだけどな。まあ、緊張なども当然あったわけだし、たぶん無意識に、おかしな力の入れかたをしてしまっていたのだろう。
いずれにしても、いまは平日の朝である。時間は待ってはくれないのだ。僕はいきおいをつけてベッドから起きあがると、そのまま身支度をはじめることにした。
ところが、だった。
寝巻きから部屋着に着替えをしているうちに、こんどは漠然とした不安がわきあがってきた。
昨夜、堤家をあとにする時点で、こころはかなり消耗していたように見えた。それでなくても、こういうことは女のほうが負担がおおきい気がする。もしかしたら、けさになって体調を崩してしまった可能性もあるのではないか。
あわてて、机のうえの携帯電話を手にとってみた。べつに、いまから連絡をとろうというのではない。ただ『熱が出たので今日は休みます』といった内容のメールでも来ているかもしれないと思ったのだ。
着信の履歴はなかった。どうにも気分が落ちつかず、ため息がこぼれてしまった。
さしあたり、なにかできることがあるわけでもないので、僕はさっさと準備をおわらせると、茶の間にむかうことにした。
なにげないふうをよそおいつつ朝食をたいらげ、玄関をあとにする。待ちあわせ場所のコンビニには、すでにわが愛すべき幼なじみの面々が集結していた。
みんな、ふだんとなんら変わるところはない。あるいは自分の様子だけは、周囲からつねと違って見えているのではないか。そんな考えが浮かばないでもなかったが、あまり気にしないよう努めた。
たとえばゴーは、おそらくはもう蛍子さんと経験済みだろうと思われる。なかば冗談めかした言いかたながら、そうほのめかされたこともあるからだ。
しかし、では具体的に、それがいつごろのことだったかまでは知らない。本人が明言しないかぎりわかりようもないことだし、そもそもあいつは『武勇伝』のたぐいを自慢げに吹聴してまわるタイプでもないのだ。
徹子ちゃんが義兄に告白していたことや、黒田が委員長に惚れていたことも同様である。説明されたり、現場を目撃したりしていなければ、軽い違和感をおぼえることはあったとしても、はっきりそれと気づくことはなかっただろう。
よくも悪くも、ひとは他人のことを、そこまで注意ぶかくは見ていないものだ。根拠もなく、原因を推測できるものではない。少々の挙動不審ぐらいで、昨夜のことを気取られる心配をする必要はないはずだ。僕はそう自分に言い聞かせた。
だが、そろそろ学校という段になって、こんどはなぜか、心臓が早鐘を打ちはじめた。
いや、なぜということはないか。理由は明白である。そこで、こころが待っているからだ。しかし、恋人とはいえ、毎日あっている相手でもある。
いっしょにいるときに、ふとしたきっかけでときめきを感じることはあるが、こんな時間、場所でというのはめずらしい。
さらにいえば、いまのこの胸の高鳴りかた自体も、そういったときめきとはまるで異質なものであるように思える。
ただし、まったく経験したことのないものでもない気がした。ほかのときに、似たようなものを感じたことがあったかもしれない。もっとも、それがいつのことなのかまではわからなかった。
校門のまえ、いつもの場所で、こころが鞄を胸にかかえるようにして佇んでいるのが見えた。とたんに、昨夜の彼女の嬌態が脳裏にちらつきかけ、僕は必死で思考をそらす努力をした。
もし、この場でそんなことを思い出してしまったら、相手の顔をまともに見られなくなると、僕は確信していた。
「ココ、おはよ」
幸が、こころに声をかけた。ゴーや徹子ちゃんも、それぞれ挨拶の言葉を口にしている。順当に、僕の番がめぐってきた。
「やあ、おはよう、こころ」
口から、よどみなく朝の挨拶がこぼれでた。意外にも、僕は平静にことを運べているようだ。相手にも、とりたてて動揺は見られず、普通に『おはよう』の言葉を返してきただけである。
心臓の鼓動が、早くも落ち着きを取り戻しつつあった。彼女に挨拶した瞬間から、そうなりはじめたのだ。
というか、よくよく考えてみれば、僕はなにを硬くなってしまっていたのだろう。たかがおはようの挨拶ではないか。はじめて愛を告白した、あの花火大会の夜でもあるまいに。
すでに、こころは集団登校の輪のなかに溶けこんでいる。内心に、得体のしれない安堵をかかえながら、僕は恋人に話しかけた。
「あの、さ。体の調子はどう? どこか、つらかったりしない?」
当然のことながら、周囲に聞かれないように注意して、小声である。見た感じ、彼女はとりたてて具合が悪いわけでもなさそうではあったが、念のためだ。
こちらの質問に、こころはほんのつかのま、きょとんとしたように小首をかしげた。しかし、すぐにすっと目を細め、悪戯っぽいというにはいささか妖艶にすぎる笑みをうかべた。そうして僕の耳元にくちびるを寄せると、そっとささやいた。
「……まだ、なかに入ってるみたい」
僕がかつてないほど赤面し、そのために場のメンバーたちからふしぎがられたのは言うまでもない。