第百八十六話 電話 2
「廣井くん、そういえば後夜祭で、あの子とキスしたんだって?」
こんどは、僕が苦笑する番だった。
「月曜の夜、これから寝るってぐらいの時間にさ。ひさしぶりにココちんのほうから連絡がきたんだ。親友をとられちゃったのは癪だけど、あの子がボクにそういうことを教えてくれるようになったのは、素直にうれしいと思う。文化祭の日に、そのきっかけを与えてくれたキミに、あらためてお礼をいわせてほしい。ありがとう」
「どういたしまして、でいいのかな」
ふたりが仲直りできたのは、僕がなにかしたというより、偶然の采配の部分がおおきい。その意味では、お礼をいわれる筋合いでもないのだが、そこは相手の好意として受け取っておくことにした。
「だけど廣井くん、それでこんご、あの子とはどうする気なの?」
「ああ、そうそう。そのことを、立花さんに相談させてもらうつもりだったんだ」
ようやくの本題だったが、話が脱線したとは思わなかった。僕と大羽美鳩の関係を例にあげるまでもなく、認識の齟齬を放置するのはろくな結果をもたらさない。こういうズレは、できるだけ早い段階で修正したほうがいいのだ。
「なら、キミはもう、自分で答えを出しているんじゃないかな」
「えっ」
予想外の意見だった。ひとりでは答えが出ないから相談をしているのに、彼女はどういう考えでこんなことを言っているのだろう。
「つまりさ。キミはいま、ココちんがちいさなころから必死で周囲に隠していた秘密を、共通の友人とはいえ、他人に暴露しちゃったわけだ。ふつうに考えたら、それはあきらかにあの子への裏切りになる」
いったんそこでくぎり、彼女はつづけて、こちらを試すようなニュアンスの言葉をつけくわえた。
「まさか、なにも考えなしに、そんなことをしたわけじゃないんだろう?」
「まあ……ね。僕は、恋人と末永く付き合っていくためには、まわりの協力が不可欠だって考えているんだ。そのためには、マイナスになるような情報も、あるていど共有していったほうが、問題を解決しやすい気がする。もちろん、伝える相手と内容はえらぶけど」
ことこのごにおよんでは言ってもしかたのないことながら、こころは立花さんに、あの人形の話をしておくべきだったのだと思う。そうすれば、すくなくとも、精神的な傷をあそこまでこじらせることはなかったのではないか。
もっとも、まだ手遅れというわけではない。いまからでも、立花さんだけでなく、仲のいい友人にはどんどん悩みを打ち明けたりしていけばいい。それで、なにごともうまく回っていくはずである。
「伝える相手に選んでもらったのは光栄だけど、残念ながら買いかぶりさ」
すこしさびしげに、立花さんがいった。
「じつにくやしい話なんだけどね。ボクはあの子にはもう、それほど影響力を持っていないんだ。幼なじみなのに、人形のことだって気づいていなかったぐらいだし、まして今年になってからは、住んでいる街も通っている学校もちがうんだ。相談するのなら、もっとふさわしいひとがいるはずだよ」
「ふさわしいひと?」
はて、だれだろう。幸、あるいは委員長か?
「いるだろう? すぐに話せるひとのなかで、ココちんにとって物質的、精神的にも最大の影響力をもつ人物が。それこそ、恋人であるキミ以上に」
彼女のほのめかしている相手がだれなのか、その一言ですぐに察することができた。しかし、意外さからではなく苦渋によって、僕はつかのま絶句せずにはいられなかった。
「男の子だからね。そのひとに頼りたくないってのは、まあ想像できるよ」
微妙にいじわるさを感じる口調で、立花さんはつづけた。
「だけど、キミは自分ひとりの愛の力とかじゃなく、他人を巻きこむ方向でココちんの問題を解決すると決意して、ボクに相談を持ちかけてきたんだろう? だったら、そこは避けては通れないよね」
こんちくしょう、と思った。
たしかに、その人物に事情を説明することで、僕はさらなる知らなかった情報を得ることができるだろう。また、こころを取り巻く状況も大幅に、よりよい方向に変化していく可能性が高い。
とはいえ、いくら効果があり、抜本的な解決になりうるとしても、それは……。
「高校生には、これは手に余る問題だよ」
畳み掛けるように、立花さんがいった。
「ゲームや漫画、小説とかの物語にはありがちなことだけど、でも現実には、世界や囚われのお姫さまどころか、たったひとりの女の子の心ですら、救える高校生なんていやしないんだ。おとなであっても、そんなのはありえないほどにむずかしい。キミがその点を恥じる必要はないとボクは思う」
「わかってはいるけど……」
それでもまだ、僕が決断しきれずにぐずぐずしていると、ふいに、立花さんの声のトーンが変わった気がした。
「お願い、だから」
否、口調そのものは、ごく平穏なものだった。すくなくとも、耳にはそう聞こえたはずである。なのに、僕にはなぜか、立花さんが泣いているように感じられた。
「もし、キミが男としてカッコ悪い選択をするのが嫌なら、ボクにたのまれたことを口実につかってくれてもかまわない。廣井くん、お願いします。どうかあの子を、助けてあげてください」
ここまで言われては、承諾するほかなかった。もとより、この案以外に有効な選択肢があるわけでもない。
「来週の週末あたり、結果を連絡するよ。朗報を待っていて」
「うん。……ありがとう」
べつに、お礼をいわれる必要はない。こころは僕の恋人だ。しあわせにするために、守るために、自分がなにか努力したり我慢したりするのは、当然のことである。
そう思ったが、口には出さなかった。
立花さんも、こころの親友として、ずっと似たようなことを考えていたのではという気がしたからだった。ただ、僕と彼女とでは、男と女という部分をはじめ、立場やできることが違うのである。
彼女がこころのためにできないことを、僕はすることができる。立花さんがお礼を言っているのは、そこのあたりについてなのだろうと思った。
そのごは、くだんの人物に相談する内容や、こんごのこころへの接しかたなど、いくつかのことをすこしだけ煮詰めた。
必要な意見を交換し、挨拶のあと、通話を終える直前になって、立花さんは思い出したように、こんなことを言ってきた。
「ところで、さ。廣井くん、ココちんとは、結局どこまでいっているの? 今日は、わりとさっきまであの子の部屋にいたってことだよね? もしかして、もう」
さすがに、そのあたりはプライバシーの範疇である。僕は威儀をただしてきっぱりと答えた。
「ナイショ。ノーコメントってことで」
すると、立花さんはクスリと笑って『あの子とおしあわせにね』とだけ言い残し、そのままさっさと電話を切ってしまったのだった。