第百八十五話 電話 1
「もしもし、廣井くん? 電話で連絡とはめずらしいね」
「ぜひ、話したいことがあってさ。ほんとうは直接あえれば一番なんだけど」
こんな時間にもかかわらず、彼女――立花さんの声には、とくに不機嫌そうなものは感じられなかった。むしろ、すこし楽しそうな気配すらただよっていた。
「会うって、ふたりでかい? どんな用件なのさ。もしも浮気の申し出とかだったら、よそを当たってもらうまえに、一発ぶん殴らせていただくことになるよ」
相手の軽口に、気の利いた返事をしようとして、しかしなにも思いつかず、僕はそのまま黙りこんでしまった。
「……どうかした?」
怪訝そうな声だった。
「今日のことなんだけどね……。こころの部屋に、あげてもらったんだ」
受話器のむこうで、かすかに息を呑んだ気配があった。おそらく、声のトーンや自分がかつて教えたヒントから、用向きをさっしてくれたのだろう。
「人形が飾ってあって……。立花さんが文化祭のときに言っていたのって、あれのことだったんだね」
手元の紙片――事前に話すべき内容を整理しておいた――に目をおとし、僕は探りを入れるように、そう言ってみた。
十中八九、まちがいないと思うが、念のためである。ことがことだけに、慎重に話を進めたかったのだ。
「そうか……。あの人形を、見たんだね」
電話に出てくれた直後とは打って変わり、ため息のまじるような声が聞こえてきた。
だが、そこから続けられた言葉に、僕は軽い違和感をおぼえた。
「で、どうなったんだい? ココちんとケンカでもした? とりなしを求めているんだったら、正直、ボクじゃ力不足としか言いようがないよ。あの子、あれでけっこう頑固なところがあるしさ。自分で謝るなりなんなりして、がんばるぐらいしか道はないんじゃないかな」
「ケンカ?」
はて、話の流れが見えないぞ。なぜ、あの人形を見たところから、ケンカという方向に話題がうつるんだ?
こちらのこの反応は、立花さんにとっても予想外だったらしい。彼女は逆に『あれ、ココちんを怒らせたんだよね?』と質問をしてきた。
怒らせてはいない。というより、関係が数歩まえにすすんだ。こころは僕に、過去にあったことを告白し、体まで許してくれたのである。
これは、どこかにズレがあるな。直感的に、そう思った。
おなじ物体でも、光の当て具合等によって、ちがうものに感じられてしまうことがある。一枚の絵なのに、あるひとが黒い壷だと思ったものが、べつのひとには向かいあうふたりの顔に見えてしまうことだってある。
それと似たようなことが、いまこの会話のなかでも起きつつあるのではないか。僕と立花さんは、口頭でしか情報を共有していないのだ。
このまま話をつづけるのは、危険かもしれない。会話の立脚点をはっきりさせておいたほうがいい気がする。
「確認しておきたいんだけど……立花さん、あの人形の名前はしってる?」
「なまえ……? いや、知らないね。というか、ココちんは人形には名付けをしない主義のはずだけど」
やはりと思い、僕はため息をついた。頭をかかえたい気分だった。
見ようによっては、こころはこちらを信用して、小学生時代から交流のある幼なじみも知らない秘密を教えてくれた、ともいえる。恋人なら、あるいはそう思って、誇りに感じるべきなのかもしれない。
しかし、実際問題としては、とてもそんな気持ちにはなれなかった。それはつまり、こころが自分の悩み、苦しみを、おそらくは一番の親友にすら打ち明けていなかったことを意味するからだ。
その事実は、本人のみならず立花さんにとっても、ひどく悲しいことであるとしか言いようがない。
「えっと、廣井くん?」
「立花さん、こころが……子供のころからよく『お母さんに言われて』といって、ちょっと変わった行動をとったりしていたのは、知っているよね?」
肯定の相槌をまって、僕は言葉の穂をついだ。
「じつは、あの人形の名前がその『お母さん』なんだ」
数瞬の間があった。
「なにを……いって」
どこか呆然としたようにそうつぶやいたあと、立花さんはいきなり声を甲高くした。
「キミ、あの子をバカにしてるの? 付き合ってるんでしょ? 言っていい冗談と悪い」
「冗談じゃないんだ、立花さん! こころが自分でそういったんだよ!」
冷静になりきることができず、僕もつい語気が荒くなった。だが、さいわいなことにと言っていいのか、それで相手が口をつぐんでくれたので、とにかく話をつづけることにした。
「おほん……。だから今日、こころ本人に、背中の火傷についての真相を聞いたわけさ」
どうやら、立花さんは幼少期のこころに虐待をおこなったのが、桐子さんの知りあいのだれかだったというところまでは把握していたらしい。ただ、その現場に、あの人形が持ちこまれていたことまでは知らなかったようだった。
「身代わりって言っていたし、たぶん、こころが見ているまえで、その……バラバラに、切り刻まれたりしたんだと思う」
「そん……な」
ひどく衝撃を受けたというふうに、立花さんが声をつまらせた。
「いちおう、念のために補足しておくけど、こころはあの人形に『お母さん』っていう名前をつけているだけだよ。べつに頭がおかしくなって、人間と人形の区別がつかなくなっているとか言いたいわけじゃない。まあ、子供っぽいといえばたしかに」
「ちがう、廣井くん、違うんだ」
突然、立花さんがこちらさえぎってきた。そうして、熱に浮かされたように、なにかよくわからないことを口走りはじめた。
自分は、なんてことをしてしまったのだろう。あの子が怒るのもあたりまえじゃないか。その縫い跡の存在はしっていたのに。子供のころからそれなりに見慣れていたせいで、もともとそういう品物だったのだろうと、かってに思いこんでいた。
要約すれば、そんな内容の彼女の独白に、僕は強い困惑をおぼえた。
「ちょっとまって、立花さん。言っていることがよくわからない。順をおって説明してくれない?」
「去年の暮れ――クリスマスのことなんだ。あの子の部屋で、ふたりで遊んだときに」
いっきにしゃべりすぎたためか、立花さんはかすかに息をはずませていた。しかし、いうだけ言っていくぶん気持ちが落ち着いてきたらしく、やがて、彼女の口調はとつとつとしたものに変化していった。
「いじめたって? あの人形を?」
「い、いや、フリだけなんだ。ほら、小学校の低学年相手だと、教師が児童にゲンコツを落とすとき、拳にはあっと息をはきかけたりするじゃない。ああいう感じで」
ほんのじゃれあい、友人同士のおふざけの延長のつもりだった。すくなくとも、立花さんにとってはそうだった。
ところが、こころはそれにたいし、ふだんの彼女からは想像もつかないような凄まじい剣幕で、激昂したのだという。
「ひったくるみたいにして人形をとられて、しかも大声で家から出て行けって怒鳴られたんだ。正直、あのときは」
そこまで言ったところで、立花さんははっきりと声をふるわせた。
「ぶたれる、とまで思ったよ。あの子を怖いって感じたのは、あれがはじめてだった。……まあ、言葉で追い出されただけで、実際に手を出されたりはしなかったけどね」
結局、そのケンカはあとで立花さんが平謝りにあやまることで和解にいたり、ふたりはもとの親友同士にもどった、かのように見えたのだが……。
「じゃあ、文化祭での帰り際のあれって、もしかして」
「はは……。みっともないところをお見せしちゃったよね。そう、じつはあのときまで、ほんとうに仲直りできたって感じじゃなかったんだ」
彼女の苦笑からは、過去のやるせなさと現在の安堵が、ないまぜになって滲み出てくるようだった。
根にもつというほどではなかったにせよ、昨年のクリスマスを境に、こころの立花さんへの態度は、かなり変わってしまったのだという。
友人として、非礼なあつかいを受けたわけではない。だけど、親友だと思っていた自分には、生じてしまった溝、距離がはっきりとわかり、当時は毎日とても悲しかった。そんなことをいって、立花さんはため息をついた。