第百八十四話 九月十三日(木)夜 4
シャワーを浴びている。
自宅の風呂場である。出るまえに堤家でも使わせてもらっていたので、本日二回めの、ということになる。
帰宅したのは、午後十時をすぎてからだった。なに食わぬ顔で、直接、玄関から自室にむかおうとしたところ、リビングから母さんの『さっさとお風呂にはいっちゃいなさい』という声が飛んできたのである。
事前に連絡してあったので、こころといっしょだったことは知っているはずだが、とくに気にはされていない様子だった。信用してもらっているのか、単純に、桐子さんから接待を受けていたとでも解釈してくれたのか。
なんにせよ、遅くなりすぎた理由を詮索されないのは、ありがたいことだった。
蛇口をひねり、シャワーを止めた。そうして浴槽に身をしずめると、心地よい気だるさが体をつつみこんでいく。
目をとじて、最初に思い浮かんだのは、あの人形のことだった。
あれは、いったいなんだったのか。こころにとって、どんな存在だったのか。なぜ『お母さん』という名前だったのか。
わりと最近まで、こころには『お母さんに言われて』といって、奇行を繰り返していた時期がある。とはいえ、これは明らかに、他人に理由を聞かれたり咎められたりした場合の口実、言い訳のたぐいである。
彼女は実際の母親である桐子さんと『お母さん』を別個の存在としてあつかっているし、そもそも本人が明言したとおり、人間と人形を混同してもいないからだ。
ようするに、こころが母親に言われたという体裁でやった行為は、ぜんぶ本人がやりたいからやったことであり、あの人形は決断するための自問自答のよりしろ、擬人化したキャラクターにすぎないと言えるだろう。
だが、その空想上のキャラクターが、頼りになるペットの動物や最高の親友、あるいは物語のヒーローではなく『お母さん』なのはなぜか。彼女には、桐子さんというれっきとした母親がいるにもかかわらず、だ。
残念ながら、僕はそういった分野の専門家ではないので、真実についてはわかりようがない。ただ、想像することはできる。
幼少期のあるとき、こころは本人の記憶によると、桐子さんの知りあいの家にあずけられ、そこで数日にわたる虐待を受けたという。その際に暴行の一環として、あの人形も刃物で切り刻まれてしまった。
まだちいさかったこころは、それを見て、人形が自分の身代わりになって守ってくれたのだと『信じ』た。
激しい虐待を受けていたとき、彼女は当然、母親に助けを求めていたはずである。なのに、実際に守ったのは桐子さんではなく、すくなくともこころのなかでは、あの人形ということになってしまったのだ。
そこに、なんらかの心理的葛藤が生じてしまったのではないか。幼いこころは、いざというときに自分を守ってくれる存在として、そばにいない母親とはべつの『お母さん』というキャラクターを創造し、人形に仮託するようになってしまったのではないか――。
ふと、両掌で風呂のお湯をすくいあげてみた。水面でたゆたうように、自分自身の顔が映りこんでいる。
われながら、じつに頼りない面差しだと思った。僕のしたで体を揺らしていたとき、彼女はどんなことを思って、この顔を見つめていたのだろう。あの人形のように、自分を守ってくれる存在だと信じてくれていたのだろうか。
おたがいに服を脱いで、いろんな場所を触りあっているあいだ、こころはずっと笑顔だった。ときどきくすぐったいと言っては、楽しそうに笑っていた。
背中の傷を晒すのには抵抗があったようだが、それでも彼女は、望めば体のすべてを見せてくれた。
恋人の膝がふるえていることに気づいたのは、うまく入れずに悪戦苦闘していたときである。その意味を、僕は深く考えることができなかった。
ようやく体がつながってからは、もう完全に無我夢中だった。途中から、こころが目に涙をためていたのに、自分勝手に動くのを止められなくなっていた。
女にとって、はじめては怖くて痛いものだと、知識としては知っているつもりだった。相手をいたわる気持ちも、直前まではたしかにあったはずである。
それを、僕は舞いあがって、つい忘れてしまっていたのだ。
なのに、こころはそんな僕にずっとしがみついて、好きだと言ってくれた。逃げようとはせず、最後まで必死で受け入れてくれた。
あのときのこころの泣き顔を思うと、全身に走るものがある。あれほどまでに僕という男を認め、肯定しようとしてくれた女にたいし、愛しさとともに、勇気や自信などのないまぜになった感情と、この身を賭してでも守りたいという覚悟にも似た気持ちが、ふつふつと沸きあがってくる。
しかし……。
そこまで考えたところで、僕はそっと、両掌をひらいてみた。とたんに、溜まっていたお湯が浴槽のなかにこぼれ落ちてしまった。
ああ、わかっているさ。
こころの期待には応えたいと思う。だが、僕は人間だ。人形のように、信じこむだけで精神的な助けになれるような存在ではない。気持ちの問題とはべつに、現実はいつだって具体的な行動を求めている。
ではこの場合、こころを守るための具体的な行動とはなにか?
やれやれと思い、僕はため息をついた。
「嫌われちゃうかなあ……」
一日ふつかでどうなるものでもないが、なるべく早く動いたほうがいい気がする。あすかのこともあるし、あと三週間もしたら、中間テストだってあるのだ。
浴槽を出て、手早く頭と体を洗い、すぐに風呂からあがった。自室にもどって髪を乾かすことにした。ドライヤーをあてつつ携帯を確認すると、電話はなく、メールが友人数名から来ていたが、緊急性のない連絡ばかりだった。
「勉強は、今日はむりだろうな」
ベッドに腰をおちつけ、新規メールを作成しはじめた。こころは、もう眠っているだろうか。彼女はひどく疲れてしまったらしく、僕が帰ったらすぐに寝ると言っていたのである。
メールの送信をすませ、僕はつかのまその場でうなだれた。
これからやろうとしていることは、こころにとって裏切りにあたるのかもしれない。ぼんやりと、そんなことを考えた。
返信が来たのは、五分ほどたってからだった。幸運なことに、いまならちょうど、電話に付き合えるという。
もっとも、この時間帯なので、あまり長く話すことはできないだろう。僕はいったん、頭のなかで要点を整理することにした。紙片に箇条書きのメモをとり、それからあらためて、携帯電話を手にとった。
<第九章前編・了>