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冥王星の少女 -the phantom girl of absolute zero-  作者: 草原猫
第九章前編 broken heart 少女の闇
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第百八十三話 九月十三日(木)夜 3

「この子の名前。お母さん」

 とろけそうな、心底からこちらを信頼しきっているような表情で、こころがその言葉を口にした。僕はどんな顔をしていいのかわからず、ただ彼女を見つめることしかできなかった。


 ――この服は、お母さんに、今日がはじめてだから印象にのこるように着ていきなさいといわれて。

 ――でも、転校してきたばかりで日も浅いし、せっかく焼いても、みんなに食べてもらっていいのかなって思ったんだけど……。あの、お母さんが、だいじょうぶだから、持っていきなさいって言ってくれて。

 ――え? ……あ、はい。そうですよ。お母さんが、絶対、印象にのこるからって。


 かつてのこころの発言が、耳によみがえってくる。そして同時に、以前、桐子さんからもらったメールの内容、自分は娘に、そんなことをするように言った覚えはないということも。

「あの? こーへいしゃん」

 ゆっくりと、恋人の笑顔が冷えはじめた。

「あっ、ち、ちが……っ」

 やがて、怯えたようにふるふると首をふりはじめた。

「そうじゃなくて、こころ、この子がお人形さんだって、ちゃんとわかってるよ。お母さんっていうのは、ただの名前で」

 目に涙をうかべて、言い訳じみたことまでやりはじめた。こころのこの姿に、僕はようやく、ある人物から受け取っていたヒントのことを思いだした。


 ――どうか、あの子が怖がるようなことをしないでほしい。たとえ冗談でも。


 これか。立花さんが言っていたのは、このことだったのか。

「ちがう、違うの。こころ、頭がおかしくなったりしてないよ。だって、このお人形さんは、お人形さんが」

「落ちついて、こころ。大丈夫。だいじょうぶだから」

 どうするべきなのか、まったく思いつかず、かける言葉すら見つけられなかった。気がつくと、僕はこころを人形ごと強く抱きすくめていた。

 いままで、彼女と交際してきた思い出や、立花さんに言われたこと、桐子さんの顔などが、つぎつぎと浮かんでは消えていく。いくつかの情報の断片から組みあがってきたものは、悪夢以外のなにものでもなく、僕の気持ちを掻き乱した。

 なぜ、こころはこんなふうになってしまったのだろう。だれが、彼女をここまで傷つけてしまったのだろう。僕のなかで、熱く煮えたぎるものと冷たく凍りつくもの、ふたつの感情がうずを巻いていた。

 いや、ダメだ、冷静になれ。僕は強く自分に言い聞かせた。

 ここでこちらまで取り乱したら、相手をさらに不安がらせてしまう。考えろ。状況を、きちんと把握するのだ。

 すでに、こころは――壊れてしまっている。精神を病んでしまっていると、言い換えてもいい。僕はそれを、はっきり事実として認識する決意をした。そこから、目をそらしてはならないとも思った。

 どう取り繕ったとしても、こころがやってきたことや、なによりいまのこの反応そのものが、健全な人間の行動とはかけ離れているからだ。

 しかし、ここで重要なのは、精神を病んでいるといっても、そうまで重篤というほどのレベルではないということである。こころは毎日、学校にもかよい、周囲の友人や教師と友好的な関係を築いている。日常生活を、きちんと大過なくすごせているのだ。

 すなわち、これは体の病気でたとえるなら、ちいさなころにこじらせた風邪かなにかが、体質が虚弱なせいで完全に治りきらなかったとか、いくらか後遺症がのこったとか、そういった類の話といえるのではないか。

 ならば、この場で自分がしなければならないことが見えてくる。体調をくずしたひとのために粥を用意するように、彼女を安心させることである。顔を引きつらせたりしている場合ではなかった。僕は笑って、恋人がくわしい事情を語れるように、うながしてやるべきだったのだ。

 よし、まだ遅くはない。いまからでも、こころの話を聞いてあげればいい。

「痛い……」

 身じろぎの気配で、僕はこころを強く抱きしめすぎていたことに気づいた。

「こーへいしゃん、痛いよ」

「ご、ごめん」

 腕の力をゆるめると、こころが顔をあげてきた。どうやら、彼女もすこし落ち着きを取り戻したようで、目を赤くしつつも、しっかりとこちらを見返してきた。

「おしえて、こころ。べつに引いたりしないから、なんでこの子の名前が『お母さん』なのかを」

「うん……」

 こちらの胸のあたりに顔をあずけるようにして、こころが抱きついてきた。そのままの姿勢で、彼女はとつとつと事情を語りはじめた。

 自分の背中には、古い火傷のあとがのこっている。こころが最初に口にしたのは、それだった。僕はちいさく相槌をうった。

「ほとんど記憶にも残っていないんだけど、こころ、子供のころに、その……お仕事で家族がだれもいないとき、何日か、よその家に預けられたことがあったの。それで」

 ママが信じて預けたその家のひとたちは、じつは悪いひとたちだった。そこで自分はいじめられて、ずっと泣いていた。こころの説明は、かなりたどたどしかったが、だいたいそんな内容だった。

「かすかに覚えていることがあるの。あのね、もしかしたら変なことを言っているって思うかもしれないけど……。ひどいことをされそうになったとき、この子がこころを守ってくれたの。その、み、身代わりに、なってくれて」

「身代わり……」

 相手の言葉の正確な意味、ことの真相については、当事者でない僕にはわかりようがない。ただ、このあきらかにズタズタにされた形跡のある人形が、自分の身代わりになってくれたというのであれば、どんなことが起きたのか想像することは可能である。

 たぶん、この人形は、こころが見ている目のまえで……。

「パパもママも、べつに恨んでたり嫌いだったりするわけじゃないよ。お仕事が大変だったのはわかってるし、悪いのは、こころをいじめたひとたちだから。でも、でもね」

 しずかな部屋に、嗚咽まじりの声がしみこんでいく。僕はゆっくりと、こころの背中をさすってやった。

「こころが辛かったとき、苦しんでいたとき、守ってくれたのはこの子だけだったの。パパもママも、なにもしてくれなかった。お母さんだけが」

「……僕が守るよ」

 言わずにはいられなかった。こころが、涙でくしゃくしゃになった顔で、こちらを見あげている。その目元を、僕はポケットからティッシュを取り出して、ぬぐってやった。

「もう、これからはだれにも、こころを傷つけさせない。僕が守る。いつでも、どこでも」

 われながら、なんて陳腐なセリフだろうかと思った。もっと、彼女が僕を信じられるよう、気の利いた言葉が選べればよかったのに。

「ほんとう? 本当に、守ってくれるの?」

「ああ、守る。誓うよ」

 じっと、こころが僕の目をのぞきこんできた。こちらの気持ちに、ウソがないかたしかめるように。

 彼女がいつもの笑顔を取り戻すのに、あまり時間は必要なかった。

「守って。こころを、まもって」

 返事をするかわりに、僕はこころの頬にのこった涙をもういちどぬぐった。それからそっと、くちびるにキスをした。はじめは押しつけるように、触れ合うように。つぎに、ついばむように。

 数回、それを繰り返したあと、おとなのキスもしてみた。息が苦しくなるまで舌をうごかして、すこし離して、またして。

 あいまに、こころはなんども僕の名前を呼んでくれた。大好き。愛してる。そんなことを、互いに幾度となく言いあい、頭をなでたり、背中に指を這わせたりする。

 やがて、くちびるを外すわずかな時間では呼吸が整いきらなくなったころ、僕はふいに、苦笑したいような気分におちいった。

 やれやれ、こんなに重い話を聞かされたあとだというのに、男というやつはなかなか、純なだけではいられないものらしい。

 軽く、恋人の胸のふくらみに手をそえてみた。そのあたりでようやく、こころもこちらの状態に気がついたようだった。

「ま、まって」

「ダメ、まてない」

 笑いながら、そんなことを言ってみた。もっとも、真剣に嫌がるようであれば、今日のところは我慢するつもりでいた。

 さわさわと、相手の顔色をうかがいながら、掌を動かしていく。すると、こころは困ったように、僕の手首をつかんできた。

「ちょっとでいいの。お願い」

 嫌がっているというより、なにか、さきにやるべきことがあるといった感じである。怪訝に思って見ていると、こころはくだんの人形――彼女の膝のうえに乗ったままだった――を抱えあげ、テーブルのうえに置いた。

 つづいて、小タンスからハンドタオルを数枚とりだして、なぜか、それを人形の頭にかぶせた。

「だって、見られると恥ずかしいし……」

 腰をあげ、こころがベッドのうえに移動した。ギシリと音を立てて、横座りのような体勢をとった。僕からすこしだけ視線をはずし、彼女は握りこんだ拳で口元をかくした。

「来て……いいよ」

 それが、限界だった。僕は時間を止めたような速さで立ち上がると、即座に彼女を押し倒した。

「ひゃうっ」

 悲鳴にも似た、かわいらしい声があがった。だが、嫌がったり怖がったりしているのではないことは、表情を見れば明白だった。

「やっ、待って、やっぱりもうちょっとだけ」

 言葉は、これ以上はもう必要ない。僕は両手で恋人の白い腕をおさえつけると、強引にくちびるを奪った。激しく舌をうごかし、彼女のそれにじっくりと絡ませた。体重を利用して、相手の膝のあいだにふとももを割りこませた。

 しばらくそうしてからくちびるを離すと、こころは頬を上気させたまま、どうにかという感じで形ばかりの抵抗をしはじめた。

「さきに……シャワーいくの、忘れてたの。汗が、におっちゃうから」

「気にしないで。こころの匂い、すごく好きなんだ」

 ふたたび、こんどは軽くくちびるを盗むと、それでこころは完全にあきらめたようだった。拗ねたように顔をそむけ、彼女はそのまま、全身の力を抜いてしまった。

「愛してるよ、こころ」

 もはや何度めかもわからない愛の告白をして、僕は恋人のワンピースのボタンに指をかけた。

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