第百八十二話 九月十三日(木)夜 2
ベッドわきの小タンスのうえに、それはフォトスタンドとならべで安置されていた。
フォトスタンドのほうは、とくに言うべきことはない。三ノ杜学園に編入してからのものを中心に、いくつかの写真が飾られているだけだ。僕とこころのふたりで写っているものもある。
問題は、そのとなりに鎮座しているもの――ぬいぐるみの人形だった。
この品物を、僕は知っている。以前、三人娘がアルバムを見せあいっこしたときに、こころの写真にうつっていたものだ。
髪の長い女の子の姿をかたどっており、おおきさはおよそ五十……六十センチぐらいか。頭身はひくく、容姿などもデフォルメされてはいるものの、服装などの雰囲気から、幼い時期のこころがモデルであるだろうことが推察できる。彼女の祖母がつくったという形見の人形だった。
写真では、おおまかな形と、材質がおそらくは布だということぐらいしかわからなかった。いまも一見しただけでは、ただのかわいらしい人形だとしか思わない。
ところが、こうして間近でじっくりと眺めてみると、僕はこの品物の異質さに気づかずにはいられなかった。
「いったい、なんでこんなにツギハギだらけなんだ?」
人形を、腋のあたりに手を入れるようにして抱きあげ、さらなるこまかい部分を観察してみた。
製作されたのは、およそ十二、三年まえになるはずである。多少は傷んでいてもおかしくないし、場合によっては補修が必要になることもあるだろう。しかし、この人形は、そういうのとはすこし違っていた。
変なたとえだが、ホラー映画に出てくる曰くつきの人形のように、どうしようもなくボロボロな感じがするのだ。
これが、男子が乱暴にあつかっていた人形というのなら、まだしもわからないでもないが、所有者はあのおとなしいこころである。
うーん……? というか、そのていどの理由では、ぜんぜん足りないよな。服や手足どころの話ではなく、顔の真ん中にすら、痛々しい縫いあとが見てとれるのだ。
むかしの漫画に、肌の色が違う人間の皮膚を移植したせいで、顔の左半分が褐色っぽくなってしまったキャラクターがいたが、ちょうどあんな感じの縫いあとである。
ふつうに子供が遊んでいて、破れた部分を直していっただけでは、こんなふうになるとは到底おもえない。わざと、たとえば刃物でばらばらに切り刻むなりしたものを、なんとか縫って形をととのえたというような光景が、容易に想像できるような状態だった。
まさか、こころがそんなことを?
だが、僕は即座にかぶりをふってその考えを否定した。
馬鹿な。いくらなんでもありえない。写真のなかで、彼女はあんなにも、この人形をかわいがっていたではないか。
昨年あたりの写真にも、抱っこしているようなものがあったし、いまもこうして枕元に置いているということは、いっしょに寝ていたりすることもあるのだろう。こころはこの祖母の形見を、ほんとうに大切にあつかっているのだ。自分で傷つけたりするはずがない。
しかし、それならばなぜ、この人形はこんなにボロボロになっているんだ?
ふいに、脳裏をある単語がかすめた。同時に、想像したくもない情景が頭にうかんできてしまい、しらず、背筋がさむくなった。
つまり、これはそういうことなのか?
虐待。だれかが、幼少期のこころに激しい暴力をふるった。そして、そいつはそれだけに飽き足らず、この人形までも――。
「なにしてるの」
背後から、声がひびいた。いきなりだったので、僕はつい、びくりと体を震わせてしまったが、おどろくようなことではないと思い直した。こころである。
「えっと、その、人形があったから……。ごめん、かってに触られたら嫌だったよね」
いったんそう断りを入れ、相手の気分を害さないよう丁重に、人形をもとの場所にもどした。それからあらためて振り返ると、こころはお茶の道具をテーブルに置いているところだった。
「かまわないけど……あの」
なぜか、こころの声が震えていた。まるで、なにかを恐れているように。
「ひ、ひどいこと、してない、よね?」
こちらのとなりの床にぺたりと腰をおろし、こころが人形を手にとった。そうして、胸にかかえるようにして抱きしめた。
その姿が、まるで子供を守ろうとする母親のように見えて、僕は言いようのない不安感をおぼえた。
「べつに、なにもしてないよ。ただ、まえに見たことがあったと思ってさ。……これ、写真にうつっていた、おばあちゃんの形見だよね?」
こくりとうなずいて、彼女はおずおずと、僕の目のまえに人形を差し出してきた。
「抱っこしても?」
「いい……よ」
じっと、恋人が見守るなか、くだんの人形を抱きしめてみた。
「かわいい子だね」
泣きそうな顔で、こころが僕を見つめている。
真剣で、異様な目つきだった。いますぐにでも、この人形をひったくって自分の手のなかに戻してしまいたい。そんな気持ちを、必死で押し殺しているようにすら、僕には感じられた。
自分から渡してきたのに、なぜこんな顔をしているのだろう。人形の頭をなでながら、僕はその理由を考えてみた。
彼女にとって、この人形はよほど特別なものなのかもしれない。なんとか思いついたのは、それだけだった。
たぶん、こころはこちらを信頼しているからこそ、こうして触らせてくれているのではないか。
いずれにせよ、恋人を心配させるのは本意ではない。僕はいいところで人形の頭をなでるのを切りあげ、こころに手渡しかえした。とたんに、彼女はふにゃりと表情を弛緩させ、あからさまに安堵の息をついた。
どうやら、相手を怖がらせずにすんだようである。やれやれと思うかたわら、ふとなにか――だれかの言葉?――を思い出しかけたが、人形を抱きしめて頬ずりするこころの様子が、あまりにもかわいらしくて、すぐに意識のそとに流してしまった。
「大事にしてるんだ、その人形」
「ちいさなころから、ずっとね。こころ、いまでも寝るときはこの子がいないとダメなぐらいなの」
どこかうっとりとした表情で、こころが人形についての思い出を語りはじめた。
作ってもらったときに感じたこととか、子供のころにはよくままごと遊びの相手になってもらったとか、そんな内容である。
成長してからは、人形遊びこそしなくなったが、それでも、ときどき話しかけたりはしているらしい。
高校生にして、人形へのこの接しかたは、ちょっと幼児性が抜けていなさすぎると思わないでもない。とはいえ、僕はこころのそういう部分も含めて好きになったのだし、こんな程度のことで引いたりするつもりはなかった。
「ねえ、この子って、名前とかはないの?」
それは、とくになんということもない雑談のつもりだった。
「名前?」
ゆっくりと、こころが顔をあげた。
「そう、名前。こういうのって、やっぱりなにかしらつけてあげたりするものだよね?」
ちなみに、おととし幸にプレゼントした熊のぬいぐるみには、まーくんという名前が与えられている。ほかの女の話なので、この場で持ち出すことはしないが、そういうことが念頭にあっての質問だった。
「……おかあ、さん」
「うん?」
一瞬、なにかと聞きまちがえたのかと思った。