第十九話 四月九日(月)黄昏 1
案の定、書類整理作業の手伝いを申しつけられてしまった。
書類といっても、一立方メートルぐらいの段ボール箱みっつを筆頭に、かなり膨大な量である。しかも、その場で整理するだけではなく、大半はちがう教室に運ばなければならないのだ。
おまけに、嵐山は、途中でほかの用事ができたとかで、いなくなってしまった。すなわち、僕ひとりで、実質すべての作業をこなさなければならなくなったのである。
教室のあいだをえっちらおっちら、大量の書類をかかえて往復すること、じつに十数回。ほかにも、細かい作業が山とある。結局、はじめたのが午後のそこそこ遅い時間帯だったこともあり、ぜんぶ終わるころには、すっかり夕方になってしまっていた。
それでも、ようやくの帰路である。僕は下駄箱で靴をはきかえ、すぐに校門をあとにした。
太陽は完全に落ちきっており、西の空には名残おしげな薄明かりがひろがっている。そのなかで、宵の明星が輝いているのが見えた。
あたりに、ひとの姿はなかった。どこか遠く、車のいきかう物音だけが聞こえてくる。
はっきりいって、疲れてしまっていた。
そもそも、今日は昼寝こそしたものの、絶対的に睡眠時間がたりていないのだ。寄り道はせず、まっすぐ家に帰って休むことにしよう。
あくびまじりに、そんなことを考えながら、歩いていたときのことだった。
「おーい。こーへーぃ」
ふいに、うしろから呼びかけられた。
おや、幸? こんな時間に、こんな場所で、どうしたのだろう。もしかして、僕を待っていてくれたとか? だったら、うれしいな。
思わずゆるみかけた頬をそのままに、僕はふりかえった。
しかし、そこにはだれもいなかった。
「え?」
いや、ちょっとまて。
なんだこれは。
幻聴……か?
なぜか、背中にぞくりとしたものが走りぬけた。
どこか、おかしかった。目に見えないなにものかが、僕のそばで息をひそめているかのような気配がある。
あの声。口調から勘違いしかけたが、よく考えると、あれは幸ではなかった。女だったとは思うが、だれか別人のものだったような気がする。
だが、それでは、いったいだれなのだろう。
そもそも、僕のことを『公平』と呼びすてにするのは、幸だけのはずだ。母さんは僕を『こーちゃん』とよぶし、男を考えにいれても、父さんとゴーは『コウ』と名前をちぢめてよんでいる。
特別なのはこのあたりだけで、ほかのひとは、よほどしたしくても名前にくん、さん付けか苗字を呼びすて、ふつうは苗字にくん、さん付けだった。
正確にはもうひとり、これも男だが、祖父の一平が、僕を『公平』と呼びすてにしていた。とはいえ、それは十年以上もまえ、彼がまだ生きていたころの話である。
しばらくあたりを見まわしてみたが、うごくものは風になびく草の葉だけだった。
しだいに、気分が落ちついてきた。
やれやれ、僕はアホか。気のせいだ、気のせい。空耳かなにかに決まっている。
「こーへい。公平っしょ?」
すぐうしろで、だしぬけに声がした。
ひっと息をすいこみ、僕は身をすくませた。それから、恐るおそる声のほうへとふりむいてみた。
こんどは、ひとの姿があった。それも、ほんの一歩か二歩の距離に。
少女である。背たけからして、中学生ぐらいだろうか。いくらか幼なげな雰囲気はあるものの、ととのった顔だちで、かなりかわいらしい。
髪の毛を頭の左右でとめていて、おさげの先端が肩までとどいている。
夏用の制服――半袖のブラウスとリボン、チェックのスカート――を着ているが、三ノ杜学園中等部のそれではない。もちろん、高等部のものともちがう。他校の子なのかもしれない。
……あれ? いまは四月なのに、なぜ夏服?
よくわからないが、みょうにおちつかない気分だった。
かすかな、それでいてはっきりとした違和感が、炭酸水の気泡のように、とめどなくうかんでくる。
ともあれ、この少女は、こちらを『公平』と親しげによんできた。ということは、知りあいであるはずなのだが……。
僕は少女をまじまじと見つめてみた。むこうも、こちらをじっと見つめかえしてきた。
「あはぁ。やっぱ公平だ。会いたかったよぉ」
そういって、少女は楽しげに笑みをこぼした。
なんとなく、幸と喋りかたの感じが似ているようにも思える。しかし……だめだ。まったく見覚えがない。
しかたないので、僕は恥をしのんで、正直にたずねることにした。
「ごめん、その……君はだれですか?」
「こりゃ、自己紹介が遅れちゃって。アタシ、あすか」
あすか? しらないな。そんな名前の子は、過去のクラスメイトをふくめても、記憶にない。
「えっと、あすか……さん? 苗字は?」
「さんはつけなくていいよ。苗字は……ヒ・ミ・ツ」
その少女――あすかは、ぱちりとウィンクをし、人差し指を立ててこきざみに動かしながら、途切れとぎれにいった。
ヒミツの『ツ』にアクセントをつけるのがポイントらしい。芝居がかったしぐさとセリフが、彼女の気さくな雰囲気によくあっていた。
「秘密って、どういう意味?」
「教えられないって意味。あと、アタシと公平は初対面だよ」
は? 初対面?
「あの……。それって、どういうこと? わかるように説明してくれないかな」
「うんとね。こういうこと」
突然、あすかが僕に飛びついてきた。
背中に腕がまわされ、胸に顔を押しつけられた。
一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。
ただ、僕は本能的にあすかを抱きとめていた。
女子特有のやわらかな感触。そして、骨格のつつみこめるような華奢さ。幸ほどではないが、庇護欲をそそられるちいさな体だった。
なのに、僕の全身には、戦慄にも似た悪寒が走っていた。
ひどく、冷たかったのである。
氷のようなその体は、あきらかに、人体がもっていなければならないはずの熱をそなえていなかった。どう考えても、生きた人間の体温ではありえなかった。
腕のなかで、あすかが僕の顔を見あげている。そのまなざしが、ひどく悲しげだった。