第百八十一話 九月十三日(木)夜 1
買い物をすませたあとは、とくに用事もなかったので、いつもどおり恋人をマンションまで送り届けることにした。
そう、まさに『届ける』だった。なにしろ、こころは道中ずっとこちらの腕にしがみついており、買い物袋とともになかば荷物と化しているような状態だったのだから。そして、そんな彼女の様子に、僕はふしぎな感慨をおぼえていた。
あたりまえのように、こうしてならんで歩いているが、こころと知りあってから、まだほんの半年に満たない時間しかたっていないのである。まして、帰宅をともにするようになったのは、たった二ヶ月まえからなのだ。
はじめてふたりで帰った日には――二回めや三回めのときも、僕はまちがいなく緊張していたはずである。それがいまでは、この胸の高鳴りはさておくとしても、どちらかといえば安らぎを感じることができる。
どんなことでも、最初は特別だったとしても、回数を重ねるうちに日常になっていくものだ。僕はこころの恋人であることを、ごく当然のことにできている。
そして、これからすることも、ふたりにとってはもう特別ではなく、だんだんと日常のありふれた行為になっていくのだろうと思った。
「こころ」
マンションの正面玄関まえで立ち止まり、僕は恋人の名前をよんだ。こころはその場で買い物袋を置き、自然に顎をあげて瞼をとじてくれた。
それを見て、僕もほとんど無意識のうちに、手持ちの買い物袋を地面に置いていた。
自由になった両腕で、恋人を抱き寄せ、しっかりとくちびるをあわせた。彼女の両手が僕の背中にまわされ、どうしようもなく体が密着していく。
眩暈をおぼえるような興奮のただなか、僕は生まれてはじめて『おとなのキス』もしてみた。こころは一瞬、びくりと体を硬くしたが、すぐに全身の力を抜き、自分からそれに応えてくれた。
しばらくそのままで、やっとくちびるを離したあと、僕は泣きたいような、怒りたいような、おかしな気分に襲われた。
なぜ、僕はこころと違う家に帰らなければならないのだろう。なぜ、ふたりで朝も夜もいっしょにいてはいけないのだろう。
そんなのは、理由を考えるまでもなくわかりきったことである。僕もこころも、まだ高校生で、子供なのだ。しかし、そうであっても、胸にひろがっていくこの衝動には、あらがい難かった。
このまま、こころをどこかに連れ去ってしまいたい。そうして、完全に自分のものにしてしまいたい。
「こーへいしゃん」
瞳をとろりと潤ませて、こころがいった。
「まだ、帰らなくていいよね? うちに寄っていって、お茶とか飲んでからでも」
「ああ……。なら、お邪魔させてもらおうかな」
いまの時間帯なら、桐子さんが家にいるはずだ。前回、招いてもらったときがそうだったからである。せっかくの機会だし、クラスメイトを代表して、メイド服の材料調達のお礼を言っておこう。
ある種の期待を頭から払うように、僕は自分にそう言い聞かせ、地面の荷物を拾いあげた。
エレベーターで上層階にのぼり、堤家の部屋玄関へと移動した。うながされるまま、入室させてもらおうとしたところで、僕はなかに、家人の気配がまったくしないことに気づいた。
「えっと、だれもいない……のかな、こころ?」
「う、うん……」
聞けば、今日は桐子さんが仕事で、帰宅は日付がかわったあとになるのだという。親父さんについては、いわずもがなである。説明のあいだ、こころはあからさまに、そわそわと落ちつかない様子だった。
「あの、あのね。こころのお部屋、こっちだから」
そっと、こころは僕の手をとると、これまでの数回の訪問では入ったことのない、彼女の私室に案内してくれた。
ゆったりとしていて、恋人の匂いがそこかしこから香ってくるような部屋である。中央には四角い白テーブルが、周辺にはおなじく白を基調とした家具が配置されている。壁紙は薄いピンクだった。
ベッドわきの壁には張り出しふうの窓があり、こちらも白っぽい色のカーテンがかけられている。そのむこう、奥行きのスペースには、いくつものぬいぐるみや人形が飾られているようだ。レースの網目ごしに、うっすらとそれらを見てとることができた。
「座って」
しょぼくれ顔のキャラクターイラストがプリントされたクッションを勧められたので、ひとまずそこに腰をおろすことにした。
「お茶、淹れてくるから、まっててね」
「その、おかまいなく……」
どうにかそれだけをかえして、こころの後ろ姿を見送った。出入り口のドアが閉まるパタンという音を聞いた瞬間、しかし僕は、いきなり自分を見失った。
あれっ。
えっ、なに、この状況。
恋人の部屋で、ふたりきり。しかも、相手の親は遅くまで――泊まることでも考えないかぎりは、支障のない時間まで――帰ってこないという。これではまるで、据え膳ではないか。
というか、す、据え膳でいいのか? ほんとうに?
さきほど、僕を部屋に誘ったときの、こころのあの表情。こちらの目が曇っているのでなければ、彼女はもう、その気になってくれているように思える。
だが、現実問題として、そんなことがありえるのか。僕は彼女に、男であることを求められているのか。
まちがって、恋人を傷つけるような選択をしつつあるのではないか。
落ちつけ。冷静になれ。男として、恋人として、自分がなすべきことがなにかを考えろ。
コのつくアレは、持っている。高校生男子のたしなみとして、鞄のなかに入っているから、いつでも使える。春ごろの保健体育の授業で配られたものなので、使用期限も問題はない。
はあ、それにしても、もらった当時はどこに隠しておけばいいのかもわからず、そのまま鞄に入れっぱなしにしていたというのに、まさかこんなに早く使う機会が訪れようとは……。
じゃない! わあっ、僕はいったい、なにを馬鹿なことを考えているのだ。
い、いや、避妊は馬鹿なことではないな。むしろ、きわめて大切なことである。とはいえ、まずはそれ以前に、たがいの気持ちをたしかめあうのが先決なのはいうまでもないのだが。
むう、だけど、こころって、僕のことが好き、なんだよな……。
これまでにも、なんども言葉で愛を確認しあっているし、さっきのおとなのキスにも、ちゃんと逃げずに応じてくれた。それにそもそも、部屋に誘ってくれたのだって彼女のほうである。
ふと、視界のはし、シングルベッドのうえの敷布がおおむね綺麗にととのえられているなかで、一部だけほんのりと皺になっていることに気づいた。
毎日毎夜、この場所で彼女が眠っているのだ。身をよこたえ、ときには悩ましく寝返りをうったりしているのだ。そう思ったとたん、僕は女豹のポーズでコのつくアレをくわえ、こちらに挑発的な上目遣いをおくってくる恋人の姿を幻視してしまい、頭を抱えたくなった。
ヤバイ、もうこれヤバイ。マジでヤバイ、どうしよう。
あっ、そうだ、いいことを考えた。いまからこころに頼んで、シャワーを貸してもらおう。頭から冷水を浴びれば、気分がすっきりして的確な判断がくだせるはずだ。
って、違う! だあっ、僕はアホか。この状況でシャワーを貸してくれだなんていったら、もはや完全にその準備をはじめるようなものではないか。
――などと、ほとんどパニック状態といった感じで、頭のなかを愚にもつかない妄想が跳ね回っていたのである。
もっとも、ほんとうは自分でもわかっていたのだ。ようするに、男のくせに土壇場で怖気づいてしまい、無理やり現実から目をそらそうとしていただけなのだと。
結局、僕がようやく冷静さを取り戻したのは、あるものの存在に気づいたあとのことだった。
「なんだこれ……?」