第百八十話 九月十三日(木)夕方 3
「お客さま、それでは準備ができましたので、席のご移動をお願いできますでしょうか」
いわれてそちらに目をむけると、店の側面に位置する大窓のまえに、ついさきほどまではなかった丸テーブルと、小ぶりな椅子がふたつ設置されていた。簡易の特設ステージといった趣きである。
にわかに、イベントらしい雰囲気が出はじめてきていた。周囲の従業員たちが数名、場を盛り上げるためか、大声で口上を述べたりしている。
大窓のむこう、外の道路で、さきほどのメガホンの女性が、両手をおおきく振っているのが見えた。こころが頬を朱にそめて、軽くそれに応えていた。
「お待たせいたしました。当店自慢のスペシャルラブドリンク『ヴェント・ドーロ』でございます」
指定の席についてすぐに運ばれてきたのは、目を疑ってしまうようなサイズのカップだった。
大サイズとは聞いていたが、これほどとは……。カフェオレボウルが、そのまますっぽりと収まってしまうほどのおおきさである。
ま、まあ、ふたりで飲むわけだし、チャレンジメニューという体裁なのだから、これでいいのか? たしかに、あのドリンクであれば、多少の量はいけそうだが……。
周囲の観客から、おおーっ、という笑いまじりのどよめきが上がってきた。
「す、すごい」
つぶやくように、こころが言った。
「こんなにおっきくていっぱい……。ちゃんと全部はいるのかな」
彼女の心配は、もっともなものだと思った。時間をかけてゆっくりとというならともかく、たったの三分で飲み干さなければならないのだ。
「体がつらそうなら、すぐに教えてね、こころ。途中でも止めるから」
健康志向のドリンクであっても、無理に量を飲んだら腹を壊しかねない。そう考えての申し出だったが、彼女は逆に、気合の入った表情で言い切った。
「ううん、だいじょうぶだよ。こころ、最後までがんばる」
挿しこまれているストローは、通常のものよりもだいぶ太めだった。野菜ジュースなので、いくぶん食物繊維が残っているだろうから、吸いやすいように配慮しているのかもしれない。しかし……。
「なんだか短いね、これ」
正確には、ストローの長さそのものは、とくに短いわけではなかった。ただ、ハート型に交差したところから先端の部分が、全体の比率からすると、ほとんどなきに等しいのである。
すなわち、向かいあうなら額を、よこに並ぶにしても頬をくっつけるようにしなければ、絶対に口まで届かないだろう長さだった。
「こーへいしゃん」
「となりに来て、こころ」
もともと、テーブルの直径からいって、向かいあうのはやりにくい。それでも、やろうと思えばやれないこともないが、これは早飲みチャレンジなのだ。楽にできるほうがいいに決まっている。
ただし、そのままでは、やはり口まで届かないので、僕たちは椅子をくっつけるようにして、体の側面を密着させることにした。腕がじゃまなので、お互いの腹から腰のあたりに巻きつけた。
そうして、反対側の腕をのばすと、ふたりで卵型センサーを握りこんだ。
さあ、準備万端である。密着した頬というか、顔全体が、周辺の空気も含めて熱くてしかたないが、そんなのはささいな問題だ。
「よろしいですか? では……はい、スタート!」
審判役の合図の声がひびくなか、僕とこころは、それぞれストローの吸い口にくちびるをつけた。
センサーを離さないよう、恋人としっかり指をからめあうと、舌の上にジュースが流れこんできた。それを、僕は喉をならして飲み下していった。
甘酸っぱさのなかにも痺れるようなスパイシーさがあって、かなり癖になりそうな味である。こんな機会でなくても、すなおにもっと飲みたいと思わせるものだった。
ちゅう、ちゅううと勢いよく、カップの中身を吸引していく。途中、横目でちらりとこころの様子をうかがってみた。
彼女は眉根をよせ、さすがに恥ずかしいのか、顔面を湯気が出そうなほど紅潮させながら、それでも健気にジュースを吸いこんでいるところだった。食むようにストローをくわえ、くちびるをすぼませ、頬もくぼませている。
これは、負けてはいられないな。僕はさらに気合をいれてジュースを嚥下していった。喉を通り抜ける冷たさが心地よかった。
そんなふうにして、手をとりあい、ときにはほんのすこし顔をずらして視線を交差させたりしつつ、夢中になって吸い、味わっているうちに、気がつくと、カップの中身が空になっていた。案ずるより産むがやすしというが、心配したよりは、わりと余裕だったようである。
「はい、そこまで。タイムは二分四十八秒です。早いですね~」
よし! みごと、ミッションをコンプリートできたようである。周囲の従業員たちが、拍手をしはじめると、店内の客たちも、いっしょになって手をたたきはじめた。たわいない話ではあるが、こんなことでも、達成感は得られるものだ。
はあはあと、こころが息を弾ませている。
「お腹が、たぷたぷになっちゃったよ……」
「へいき?」
なかば笑いながらの発言だったので、苦しかったりするのではないだろう。そうは思ったが、念のため確認してみると、こころは僕の手首をつかんで、自身の下腹あたりに導いてきた。
「どう?」
「……たぷたぷしてる、かも」
そのご、ふたたび新店長がやってきて、カップル割引券十回分と、なにかの用紙を手渡してきた。前者は本日から一年間つかえるもので、男女カップルなら友だちにあげてもいいのだという。後者は、ジュースの味などにかんするアンケートだった。
解答欄に記入し、そのままのんびり休憩をとっていると、大量のジュースを飲んだにしては、意外にも空腹感が強くなってきた。健康志向の野菜ドリンクだし、胃腸の働きを活発にする成分でもはいっていたのかもしれない。
僕は、テーブルの呼び鈴を押し鳴らした。ウェイトレスに料理をたのむためである。
残すかもしれないという懸念があったので、皿はすくなめに、すこしずつ注文をした。ところが、料理人が変わったためか、それ以外の理由でなのか、いつもより美味しく感じられ、追加をしていくうちに、結局ふだんどおりの量をたいらげてしまった。
イベントまえに提示されていたとおりの半額で会計をすませ、店を出るころにはすっかりと暗くなっていた。僕はいちおうの連絡として、母さんに『夕食はすませた、いまからこころの買い物を手伝うので、すこし遅くなる』という内容のメールをおくることにした。
了解の返事は、すぐにきた。僕たちはあらためて、堤家の生活用品を購入しにスーパーへと向かった。