第百七十九話 九月十三日(木)夕方 2
ほどなく、厨房のほうから体格のいい青年があらわれた。
身長は、二メートル近くはあるだろうか。金髪で、目が青い。見るからに欧州人ふうの顔立ちである。コック帽をかぶっているので、料理人と思われた。手には盆をもっていて、それには紙コップの束と、ティーポットのようなものが乗っていた。
見慣れない人物である。彼も今回の従業員総入れ替えにあわせ、あたらしく雇われた人間なのだろうか。
「あのひと、ジョルノの新店長さんだよ」
「えっ、そうなの?」
ということはあれが、いまは二号店にいるという元店長の息子さん? たしかに、背丈のわりに童顔っぽいし、そんなに歳をとっているようにも見えないが……。
へえ、この顔からしてハーフだよな。元店長は、白髪に口ひげがダンディな壮年の紳士だったが、奥さんが外国のひとだったとは知らなかった。
悠然と、新店長さんがこちらに歩み寄ってきて、そのまま深々と頭をさげた。
「本日はご来店いただき、まことにありがとうございます」
顔に似合わずといっては失礼ながら、ふつうに日本語だった。しごく丁寧な物腰でもあり、なんだか恐縮してしまった。
「ど、どうも……」
「お客さま、それで、カップルチャレンジをご希望とのことですが」
にこやかな表情で、新店長さんがくだんの『カップル応援イベント』について説明をはじめた。
それによると、どうやらこのイベントは、カップルドリンクをただ飲めばいいというだけのものではないようである。制限時間内に、大カップのドリンクをふたりで空にするというルールだそうで、しかもそのあいだ、ずっと手を握りあっていなければならないらしい。
ようするに大食い、もしくは早食いチャレンジの飲み物版とのことだった。
「こちらが感知器になっております。このスイッチの部分が、おふたりさまの掌に接触するように握りこんでくださいませ。もし、途中で離したらブザーが鳴りますので、そこで失格になります」
そういって渡されたのは、PC用マウスぐらいのおおきさの、卵のような形をした器具だった。ただの楕円球ではなく、ボタンが両脇にくっつけられている。このイベントのために、わざわざこんなものをあつらえたのだろうか。なにか、おかしな感じである。
「よろしいでしょうか? ではお客さま、これを」
つづいて、新店長は盆のティーポットから、紙コップに液体を注ぎはじめた。山吹色のそれは、色の濃さからいってお茶などではなく、ジュース類のようである。
「まずはご試飲くださいませ。お召し上がりいただくドリンクになります」
「はあ……」
カップルドリンクをやるのははじめてだが、事前に試飲などするものなのだろうか。ますますもってふしぎな感じである。
ともあれ、このままコップを眺めていてもしかたがない。うながされるまま、僕はドリンクを口にふくんでみた。
とたん、かなりの意外な味に、ちいさく声をあげてしまった。
最初に感じたのはあっさりした甘さと、それを引き立てるような塩味だった。鼻に抜ける香りも、ピリッとスパイシーである。
どちらかというと、甘くてほどよく冷たいスープのような印象もなくはない。しかし、この喉ごしのよさはたしかにジュースのもので、ごくごくと飲んでみたいと思わせる爽やかさがあった。
「これ、野菜ジュース? トマトが入ってるよね……。あっ、でも果物っぽい味も」
しきりと、こころが小首をかしげている。
「はい、たくさんお召し上がりいただいても、健康によいものをというコンセプトで開発いたしました。当店独自ブランドの新商品でございます。三十種類の野菜と果物の絞り汁をブレンドし、そこに十六種類の香辛料をくわえて」
うれしそうに、ドリンクの説明をはじめた新店長の笑顔は、年上ながらどこか愛嬌を感じさせるものだった。彼の話を聞きながら、僕はなんとなく納得するような気分になっていた。
たぶん、このイベントはただの客寄せではない。新商品の味見せと、宣伝もかねているのだろう。
「いかがでございましょうか、お客さま。もしお口にあわないようでしたら、オレンジジュースやアップルジュースなども用意しておりますが」
野菜ジュースというが、よくある独特のくさみのようなものはまるで感じない。香辛料がいい仕事をしているのだ。味についてもあっさりと控えめで、食事のあいまに飲むのがよさそうに思えた。
「どうする、こころ? 僕はこれでもかまわないけど」
「いいよ。こころ、好きかも、この味」
僕たちがその旨つたえると、新店長は『では少々おまちくださいませ』と言い残し、厨房にもどっていった。
そのままふたりして、例の卵型感知器を握りあう練習などをしながら待っていると、こんどは違う店員がやってきた。ストップウォッチを手にたずさえている。彼が審判役なのだろう。
「制限時間は三分になります。ご健闘を」
ふと気がつくと、いつのまにか、店内の客の耳目がこちらに集中してきていた。僕たちが新店長から説明を受けているあいだに、周知がなされていたらしい。すこし恥ずかしい気もしたが、恋人を自慢できるようで、誇らしくもあった。だれか男の『うわっ、スゲー美人じゃん』という声が聞こえてきたのである。
気の毒なことに、その声の主は自分のパートナーに怒られてしまったようで、直後に『イテテ、ごめんごめん』という悲鳴じみた声があがった。