第百七十七話 九月十日(月)夜 2
どうやら、僕は恋人の父親、名前は結介さんといったか、彼について、あまりいい印象を抱けていないようである。家族をほうっておいて、自分勝手に仕事にのめりこむ男だと、つい思ってしまうのだ。
いや、会ったこともない人間に、断片的な情報から悪印象をもつなど、偏見もはなはだしいというのはわかっているのだが……うん?
はて、なにか自分が変だな。思考がとりとめなく、さきほどの腹立ちを引きずっているようでもある。これ以上思いつめると、関係のない人間にまで怒りが飛び火してしまいそうだ。
左足小指の爪にやすりをかけながら、僕はもういちどため息をついた。
こころに、会いたいなあ。
わけもなく、恋人の顔がうかんだ。ほんの一時間ちょっとまえまでいっしょだったわけで、べつにさびしいわけでもない。ただ、視界内にいないのが、なんとなく物足りないのだ。
せめて、声が聞きたいよ。そんなことを考えて、つかのまぼんやりしていると、ふいに携帯が鳴った。
ディスプレイを確認するまでもなく、設定した着信音だけでだれかわかる。以心伝心か、とよろこばしく思ういっぽうで、僕は不審さも感じていた。ふだん、彼女から電話がくるのは、たいてい寝る直前である。夜とはいえ、まだ勉強もしていない時間帯にというのはめずらしい。
「やあ、どうしたの? あれから、なにかあった?」
こちらの問いかけに、電話の相手――こころは、どこか歯切れの悪い調子で『こーへいしゃんが、怒ってるみたいだったから』と答え、それからなぜか、あすかの擁護のようなことをやりはじめた。
あすかが自分を嫌っているのには、きちんとした理由があるはずだというのである。それはそのとおりだろうが、どうしていま、こころがそんなことを力説してくるのかが理解できず、僕は困惑してしまった。
「カラオケのときにも考えてたんだけど、あすかちゃんって、絶対、なにかあると思うの。その、懲罰だっけ? そういうのだけじゃないことが」
指摘を受けるまでもなく、僕のほうがあすかとの付き合いは長い。なにかあるだろうということはわかっている。
問題は、具体的になにが、ということであるわけだが、さて、こころはいったい、どんなことがあると考えているのだろう。
単純に、興味をおぼえた。他人の視点からなら、こちらの見落としているものを拾いあげてくれるかもしれないのだ。
そこで、僕はあえて素知らぬふうを装い、相手の発言をうながすことにしてみた。
「なにかって、なにが?」
「こーへいしゃん、気づいてないの? あすかちゃんの顔っていうか、全体的な雰囲気のこと。ねえ、似てるって思わない? たとえば、耳とか眉の形なんかがとくに」
なんだ。やっぱりそれか。
ふつうに予想どおりのことでしかなかったので、僕は軽い失望感をおぼえた。もちろん、こころが自分でそのことに気づいてくれたという安堵もあり、返事には、期待はずれな気持ちはおくびにもださないよう努めた。
「わかってるよ。僕だって、考えなしに幽霊の話し相手をしてきたわけじゃないからね。ずっと、こころとあすかの顔が似ている気がしてたんだ」
「うん。……うん?」
受話器から、どこかきょとんとしたような声がかえってきた。どうやら、こころは本気で、僕がそのことに気づいていないと思っていたようである。
「だからさ、いつだったか、こころに『姉か妹はいないか』って尋ねたことがあったでしょ。あれ、じつは最初、ふたりが姉妹とかじゃないかと思ってて、それで聞いてみたんだよ」
「しま……あ、あの? だ、だってあすかちゃんって、こー……えっ、ええっ?」
それは、いくらなんでも驚きすぎじゃなかろうか。
相手のこの反応に、さすがにこちらを甘く見すぎだと憮然としかけた。もっとも、よくよく考えてみれば、僕がはじめてそのことに気づいたのは、両者としりあって三ヶ月ぐらいたったあとである。
いかに自分のこととはいえ、せいぜい二・三回あっただけで気づいたのだから、こころのほうがよほど勘がいい。というより、女性全般が、そもそも男より直感的なのかもしれないが。
「に、似てる……。こころの顔、あすかちゃんと似てるのかな」
おや?
声がふるえている、と思った。なにか、相手の様子がおかしい気がする。
「ああ、すごく似てるね。……えっと? こころも、そう思ったんじゃなかったの?」
「そ、その……う、うん! そうだね、こころも、思ったかも」
受け答えも、みょうな感じのものだった。口調から考えて、言い返されて機嫌が悪くなったというわけでもなさそうだが……。
「どうしたの、こころ?」
「な、なな、なんでもないよ! じゃ、今日はこのへんで、またあしたね」
いうが早いか、電話が切れてしまった。いつもに比べると、だいぶ短い時間しか話していない。
もっと、声を聞いていたかったのに。
一瞬、そんな気持ちが沸きあがってきたのを感じ、僕は自分に呆れてしまった。
やれやれ、一日おなじクラスで勉強して、放課後もいっしょにいて、夜、電話までしているのにまだ足りないなんて、どんな甘えん坊だよ。
ともあれ、もう勉強の時間である。僕は自身の両拳を軽く打ちあわせると、よし、とばかりに気合を入れなおし、椅子にすわって参考書を開くことにした。