第百七十五話 九月十日(月)黄昏 2
不快感が、そのまま氷の像と化してしまったようなあすかの横顔を見つめながら、僕は深い後悔の念を味わっていた。
ふたりが会えば、どうにかなる。なにかが動く。そう思っていたのである。否、期待していたのである。
それが、このざまだった。なにかが動くどころの話ではない。状況はおろか、相手の表情も、顔の角度さえも、ろくすっぽ変化してくれないのだ。
恋人がいる手前できないが、正直なところ、あすかの頭をつかんで、無理やりにでもこちらを向かせてやりたいという強い衝動すら、僕は感じていた。
「ね、ねえ、こーへいしゃん。これ、見てもらお」
鞄から、こころが携帯電話を取り出してきた。
ディスプレイに映っているのは、昨夜のカップルコンテストの画像である。僕とこころが壇上で紹介されているときに撮影された写真で、観客にアピールするために、恋人つなぎで手を握りあっているといった構図のものだった。
じつは、クラスメイトのひとりが観客席から撮っていたものを、学校の休み時間中に転送してもらっていたのである。あすかにたいする説明につかえるかと思って用意してきたのだが、この状況では……。
ふむ? まてよ、写真を見せるという名目で、あすかに近づくのはいいかもしれない。
頭をつかむのはないにしても、肩をつかんで体の向きを変えさせる程度なら、やってもいい気がする。失礼なことをしているのは明らかにあすかのほうだし、とにかく、最低でも視線を交わすぐらいはさせないとダメだ。
そう思い、僕はこころから携帯を貸してもらうと、立ち上がってあすかの座るベンチのよこへと移動することにした。
「あすか、これを見てほしい。僕たちは恋人同士として、昨夜、カップルコンテストに」
これで顔をそむけるようなら、強めの言葉で注意して、体の向きを変えさせてやる。そんなことを考えて、相手の鼻先に、開いた携帯電話を突きつけてみた。
突然、ひっという悲鳴じみた声があがった。
つぎに、手首のあたりに強い衝撃を感じ、直後、なにかが地面にぶつかるカランカランという音が聞こえてきた。
えっ、と思い、僕は自分の手のなかをまじまじと見つめた。携帯電話がない。音がした方向に目をやると、なにかが転がっている。
いま、起こったこと。理解したとたん、目のまえが真っ赤に染まるような気分になった。
画像を見た瞬間である。あすかはこれまで以上に不快そうな――あたかもグロ系の写真、たとえば気持ち悪い虫のものでも見せつけられたような――表情を浮かべ、こちらの手を払ってきたのだ。というより、平手打ちをしてきたのである。それで、僕はつい、こころの携帯を取り落としてしまったのだ。
叩かれて勢いがついたこともあり、携帯はそのまま、数メートルほど離れた位置にまですっとんでいってしまったのだった。
「おい」
なぜか、あすかは両手で顔をおおっている。震えているようにも見える。だが、そんなことを気にしている余裕は、もう僕にはなかった。携帯を拾いに行くのも忘れ、こころが席をたってそちらに向かうのを見て、ようやくそのことを思い出したぐらいだった。
「ふざけるなよ、あすか……」
昨夜、大羽美鳩にされたことなど、比較にもならない。この子は、こんなことをする子だったのか。ずっと、いい子だと思ってせっしてきたのに。
いや、違うのかもしれない。
この子はずっと、猫をかぶっていたのかもしれない。僕を信用させるために。
そもそもこの子は、その場かぎりのいい加減なことばかり言っているのだ。こころに会ったことがないというのは絶対にウソだし、すくなくとも、隠しごとをしているのは確定的である。こちらは善意で、あすかの『懲罰のための奉仕活動』に付き合っているというのに。
さらにいえば、それすらもウソなのではないか。この子はなんらかの、おそらくはこころにかんする事柄で、なにかを画策するためにこちらに近づいてきたのではないか。僕はまんまと、そのために利用されてしまっているのではないか。
ぎりぎりと、異様な音が聞こえてくる。自分自身が立てている音だ。歯軋り。怒りをこらえようと、奥歯を噛みしめる。それでほんとうにこんな音が鳴るのだと、僕ははじめて知った。
「お、落ちついて」
いきなり、うしろから抱きすくめられた。こころだった。
「怯えてるじゃない、この子……。携帯も壊れてないみたいだし、こころは気にしてないから、ちゃんとお話、聞いてあげよ。ね?」
一瞬、彼女はなにを言っているのだろうか、と思った。
寛容なのは、悪いことではない。しかし、ものには限度がある。こんなことをされて、なにもせずに済ませるのは、まちがっているはずだ。
だが、あえて反論はせず、僕はそのまま自分の席にもどることにした。ある懸念を、こころには感じているからだった。それは、いまこの場で指摘しても意味のないことである。
あらためて見ると、あすかは目をふせたまま、くちびるを噛んでいるようだった。姿勢は相変わらずで、表情だけがどこか沈痛な感じである。
「なにか言うことはないの? あすか」
自分でも、それとわかるぐらい冷ややかに、僕はいった。
もちろん謝罪、あるいは取り成してくれたこころに礼をいえという謎かけのつもりだった。とはいえ、僕はもう、あすかになにか期待する気にはなれなかった。
「アタシ、帰る」
ところが、返ってきたのは期待どころか、予想を超える最低最悪の言葉だった。僕はほとんど反射的に腰を浮かしかけた。実際に立ち上がらなかったのは、こころがよこから腕にしがみついて、抑えていたからだった。
あまりにもひどすぎて、言葉も気持ちも通じなさすぎて、もはや笑ってしまいたいほどである。
「公平、来週はひとりで来て。お願いだから」
こちらも見ずにそれだけ言い残すと、瞬きをするまに、あすかはもういなくなっていた。
「なんだよ、これ」
片手を顔に当て、もう片方の手を自分の膝に置くと、僕はそのまま、深いため息をついた。
「ほんとうに、なんなんだよ、いったい」
「こーへいしゃん……」
こころが、僕の肩に手をそえて、慰めてくれている。
「ごめんね、こころが来ちゃったせいで」
「違う……。こころの責任じゃないさ」
言いたいことは、彼女にもあった。だが、その気力がわかなかった。それに、いまは腹が立ちすぎていて、恋人に言うべきでないようなことを言ってしまいそうな気もした。
「……ねえ、こころ。いまからカラオケに行こう」
「え?」
僕の、あまり脈絡のない提案に、こころは面食らったようだった。
「こんな気分じゃ、家に帰っても勉強が手につかないよ。大声で歌ってすっきりしたいんだ」
まだ、そこまで遅い時間帯ではない。あすかが、ものの三十分もしないうちに、さっさと帰ってしまったからだ。このぐらいなら、高校生の道草としては、非難されるほどでもないと思う。
「いいけど……」
すこし戸惑ったような表情で、それでもこころはうなずいてくれた。僕は恋人の手をとると、ならんで公園をあとにした。