第百七十四話 九月十日(月)黄昏 1
「なんで、ひとりじゃないの」
声が聞こえた瞬間に、相手の姿が認識できるようになったと思った。
休憩所のそと、表口側五メートルばかりの位置に、気がついたらそこにいたという感じで、あすかがたたずんでいたのである。
うつむきがちなその表情は、意外にも、かなり取り澄ましたものに見えた。仏頂面でもされるか、へたをすれば、いきなり怒声をあげてくるかもしれないとすら思っていたのだが、とりあえずそんな雰囲気でもなさそうである。
ようやく沈みはじめた太陽が、あすかの白い顔を血の色に染めていた。
「先週、あんなことになったからさ。彼女が、あすかに謝罪したいって言っているんだ」
ゆっくりと、あすかが僕たちに近づいてくる。表情に変化はない。心持ち、眉をひそめていて、そして視線は、自身の足元のあたりにむいているようだった。
「それで、おほん。じつは、僕はもう彼女――堤こころさんに、恋人として付き合ってもらっているんだ。そういう関係になったのは先月からだけど、好きになったのはもっとまえからで……その、いままで言わなかったのは、悪かったと思っている」
聞いているのか、いないのか。緩慢な動作で、あすかが僕たちの向かいのベンチに腰をおろした。無表情のまま、どこかぼんやりとした目をしていた。
「えっと、あすか……ちゃん? 堤こころといいます。彼とは、交際をさせていただいていて」
恋人の妹にたいするかのような口調で、こころがあすかに挨拶をはじめた。
初対面ではない。しかし、知りあいというほどでもなく、またいくらかの負い目がある。そういう微妙な立ち位置の存在にたいして、こころはひとまず、年長者としてせっしてみることに決めたのだろう。親しげではあるが、同時に、徹子ちゃんあたりにするよりも、かなり子供あつかいした話しかたになっていた。
「ほんとうに、ごめんね。先週は、勘違いしちゃって。だいたいの事情は彼から聞いたけど、こころにも、あすかちゃんのためにできることがあったら」
あすかは、ほとんど微動だにしていなかった。ほんのりと額に縦じわをつくり、テーブルのうえの、どことも知れないあたりを眺めているだけである。こころに視線を送らないというより、そもそも視界内に入れないようにしているという感じだった。
これ以上ないというぐらいの、完全な無視である。そのごもしばらく、こころは自己紹介を中心に、あれこれとあすかに話しかけていたが、まるで人形を相手にしているかのようだった。
「返事ぐらいしろよ……」
たまりかねて、僕がそういうと、こころは困惑したように口をつぐんだ。あすかはといえば、ようやくほんのちょっとだけ視線をあげたと思ったら、すぐに目をふせてしまった。
やれやれ、しかたないか。ため息をこらえつつ、こんどは僕が、交際にいたるまでの経緯――道でぶつかったところから、花火大会のあたりまで――を話すことにした。
ところどころ、こころにも水をむけて、補足などもしてもらったが、あすかの反応はなしのつぶてだった。
まさか、ここまでだったとは。
だんだんと、僕は途方にくれるような気分になってきた。なんというか、これではもう、壁に話しかけているのと変わらないのである。
かつて、立花さんとはじめて会ったとき、嫌な顔をされたし、無視もされた。それでも、いくらかの反応はあったし、相槌ぐらいは打ってもらえた。なのに、あすかのこれは、声が聞こえていないのではと疑ってしまうレベルなのだ。
はっきりいって、大声で暴言でも吐いてもらったほうが、受け答えが成立するぶん、まだしもマシなほどだった。
「あ、あの……」
こころの声が、ふるえていた。顔も、すっかりと青ざめてきている。予備知識として、嫌われているということは教えておいたが、いくらなんでも、ろくに会ったこともない人間からこんな態度をとられるとは、想像もしていなかったのだろう。理由がわからないのだから、なおさらだ。
彼女に申し訳ない、判断をまちがえた、やはりひとりで来るべきだった――。そう思い、自分の目論見の甘さを呪ういっぽうで、僕の腹のなかは、確実に煮えはじめていた。