第百七十二話 九月十日(月)午後
教室にもどってみると、文化祭は、もう痕跡を探すこともできなくなっていた。
係の人間が動いたようで、午前中は手つかずだった壁の掲示物が、来週以降の校内イベントに向けたものに一新されていたのである。
また、授業がはじまっても、雰囲気は平時と変わるところがなかった。これについては、一時間めからそうだった。朝のホームルームで、担任の嵐山から釘をさされていたこともあるのだろう。ぴりぴりしているわけでもなく、心地よい緊張感があった。
ただし、僕自身にかぎっていうなら、いまだに弛緩した気分が抜けきれていなかった。
黒田から委員長への告白イベントにはじまり、カップルコンテストでのこころとのはじめてのキス、さらにはけさの、ゴーによる一年越しの打ち明け話など、短時間にいろいろなことがありすぎたのである。すこし、気持ちが浮ついていたのかもしれない。
そろそろ、頭の中身を切り替えなければな。そう思い、僕は二度ほど、軽く自分の右こめかみあたりを小突いてみた。
五時間めの授業は数学である。小テストの解答欄を埋めながら、しかし僕は、気を引き締めるどころか、さっそくほかのことを考えはじめてしまっていた。放課後についてである。
今日は、学級委員の仕事がない。学校がおわればすぐにでも公園に――あすかに会いにいけるだろう。こころも連れていくつもりだった。ふたりで話しあって決めたことである。
この一週間、僕はあすかについて、折にふれてはこころに説明してきた。学校でも、夜、寝るまえの電話でもだ。
内容はおもに、なんのために来ているのか、僕がしっている限りの相手の境遇、これまでに彼女とかわした会話のうち、いくつか印象にのこっていることについてなど。
ふたりの顔が似ていることについては、あえてなにも言わないことに決めていた。いまのところ、その意味するところがはっきりわかっておらず、かってな憶測で語ってしまうにしても、こころを傷つけてしまいかねない微妙さをふくんでいる気がしたからだ。
とりあえず、目のまえでいきなり人間が消失するという超常現象を体験しているぶん、納得しやすかったのだろう。こころはこちらの説明を信用してくれたようで、誤解をしてすまなかった、先週のことについて、あすかに会って謝罪がしたいと申し出てくれたのである。その言葉に、僕は一も二もなく賛成の意をしめした。
もともと、こちらも両人にはいずれ会って話をしてもらいたいと考えていたからである。そうすれば、あすかが隠していると思われること、裏にあるかもしれないなんらかの事情を浮かびあがらせることができるだろうし、単純に、関係を改善させるきっかけにもなりえると思ったのだ。こころの提案は、僕にとっては渡りに船だった。
とはいえ、懸念すべき点はもちろんあった。あすかには、こちらから連絡をとる手段がない。必然的に、僕とこころが今日いっしょに来ることを、相手に伝えることができない。いわば、事後承諾の形になるわけで、これまでの彼女の言動をかんがみれば、強硬な反発を受けることは充分に考えられた。
とくに、あれだけ感情の起伏がはげしい相手であるだけに、いつもの――といってしまうのも困ったものではあるが――暴言を超えるものをぶつけてこられるかもしれないのは問題だった。そんなことになったら、こころは傷つくだろうし、おそらくは腹も立てる。あとで慰めるのは当然としても、三人だけの会合なのだから、もしケンカになってしまったら、僕がひとりで取り成さなければならないのだ。
女同士のいさかいに挟まれる、などという言いかたでは、いささか他人ごとのようにも聞こえてしまうが、自分の身に降りかかるとなると、それは想像するだに憂鬱な状況といえた。
やれやれ、あとに回して、うやむやにしてしまえるような種類の問題ならよかったのに。
口のなかで転がすように、僕はそうひとりごちた。
実際、今週に会合をもつのはあきらめて、来週以降に先送りするという選択肢も、なくはないのである。ただ、その案を採用する気には、どうしてもなれなかったのだ。相手が嫌がるとわかっていてなお、こういう行動をとらざるをえないのには、いくつかの理由があった。
まずひとつめは、現状どう説得しても、あすかがこころと会っていいと言ってくれるとは思えないことである。
どうせ嫌な顔をされるなら、謝罪するためという口実が通用するいまこそが、まだしもチャンスといえる。逆に、時間がたてばたつほど、言い訳が効かなくなってしまうだろう。
ふたつめは、どちらかというと気分の問題であるが、こころと交際しているのを、先週発覚するまでおよそ一ヶ月ちかくも、あすかには秘密にしていたことである。
いまの状態は、そのツケのようなものともいえるわけで、このうえ長時間にわたって問題を棚上げにするのは、どうしても抵抗があった。あすかに会えるのは、週にたったの一日、それも一・二時間だけなのだ。
最後にみっつめ、これは本人には言いづらいことながら、あまりぐずぐずしていると、こんどはこころのほうが気後れをはじめるというか、考えが変わってしまうかもしれないという心配があった。
恋人を見くびっているようで失礼とはいうものの、蛍子さんに謝罪するのになかなか踏ん切りをつけられなかった徹子ちゃんの例もある。あすかだけでも面倒なのに、このうえこころにまで後ろむきな気持ちになられてしまうと、会合の実現自体が困難な状況に陥りかねない。それはある意味、詰みにはまるのと同義だった。こちらから、能動的に事態を打開する手立てがうしなわれてしまうからだ。
つまるところ、手をこまねいていても状況は好転しないばかりか、さらに悪化する可能性のほうが高いのである。たとえ拙速のきらいがあろうとも、せっかくの機会を逃したくはなかった。
「よし、そこまで。じゃあ採点いくぞ」
あれこれ考えているあいだに、数学教師が小テスト時間の終了を宣言した。普段の例にならって、僕はとなりの席の女子と答案用紙を交換すると、教師の答えあわせにしたがい、採点をはじめた。
……あっ、まずい。
まだ採点の途中だが、いくつか正解が答案に書いたのとちがう。計算をまちがえてしまったようだ。解答欄を埋めたあとは、見直しもそっちのけで思考に没頭してしまっていたからなあ。
「ほい、テスト。どったの、廣井っち。あたしとおなじ点数なんて、めずらしいね」
「あはは……ケアレスミスってやつかな」
結局、正答率は八割未満というところだった。いつもより、一割以上も悪い。心中で、僕はひそかに舌打ちをした。
いちおう、毎回の小テストにおけるクラスの平均点から考えれば、そこまで悪い点数というほどでもない。それでも、くやしいのは否めないし、なにより夏休み中に女と付き合いはじめた男が、休暇あけにいきなり成績が落ちだしたりしたら、自分だけでなく相手にも恥をかかせてしまう。
ほんとうに、もっとしっかりしなければいけないな。答案用紙をまえの席にまわしながら、僕はもういちど、強く自分に気合を入れなおした。