第百七十一話 九月十日(月)昼
その日の昼休みである。僕は校庭のベンチにこころを誘うことにした。
早いもの勝ちの場所なので、ほかの候補も考えていたのだが、さいわいにも座ることができた。あとから現れて、残念そうな顔をしつつ去っていったほかのカップルたちには申し訳ないと思ったが、これも巡りあわせである。
わざわざこの場所に移動してきた理由については、ただの気まぐれではなかった。ささいなことながら、ちょっとした事情があって、教室にいたくなかったのだ。
すなわち、委員長と黒田が、もしかしたら交際の報告をしてくるかもしれないと思ったのである。
もちろん、こちらとしては、ふたりの交際に含みがあるわけでは決してないし、報告されて困ることがあるのでもない。ただ、僕は黒田が委員長に告白する場面をのぞき見しており、すでにある程度の顛末もしってしまっているのだ。
正直なところ、いまさら本人たちから『付き合うことになった』と言われたとして、どんな顔をして聞けばいいのかもわからないし、そういうのはできるだけ、後回しにしてしまいたかった。
なお、すくなくとも、昼になるまでは、彼らが僕以外の人間たちにたいして、なんらかの報告や宣言をするということはなかったようである。
黒田はクラスの男子に、あたらしい恋人の自慢などしていなかったし、委員長の周囲が、女子の祝福の声で盛り上がるということもなかった。
変化があったといえば、委員長が眼鏡をかけておらず、髪をストレートにおろしていたことだけである。もっともこれも、昨日の段階ですでにそうだったためか、文化祭でのイメチェンの延長とでも解釈されたようで、とくに理由をたずねられたりしている形跡はなかった。
ようするに、まったくのいつもどおりなのである。あるいは、ふたりは交際の事実をあけっぴろげにはせず、かつてのゴーと大羽美鳩のように、周囲に秘密にする気でいるのかもしれない。
もしそうなら、のぞき見をごまかすのは楽になると思った。あとになって、なんとなく察していたとでも言っておけば、それですむからだ。
とはいえ、まったくなにも教えてもらえないとなると、こんどは逆に、友人としてさびしく感じないこともない。われながら、わがままなものである。
まあ、どちらにしたところで、相手がなんのリアクションもとってこない以上、こちらから言うべきことはなにもなかった。
「こーへいしゃん、あーん」
こころが、箸で弁当の一品をつまみあげ、こちらの口元まではこんできた。うながされるまま、僕はそのおかず――鶏肉のから揚げ――をほおばった。
うむ、うまい。醤油の風味が鼻腔をくすぐって、いかにもご飯がほしくなる味だ。
「はい、ご飯」
こちらの考えを読みとったかのように、こころが僕の口内にご飯の塊を放りこんできた。胡麻がふりかけられていて、じつに香ばしい。
燦々とふりそそぐ陽光のもと、恋人に手ずから食事をさせてもらうというのは、ちょっとした黄金体験である。すこしぐらいの悩みや心の痛みなど、あっというまに癒されてしまうような気すらしてくる。
うれしさのあまり、僕も箸をとって『あーん』をもちかけると、こころはほんのりと頬をあからめながらも応じてくれた。
ああ、しあわせだなあ。
さて、そんなふうにして弁当の中身を片付け、水筒のお茶で口のなかをさわやかにしていると、なぜかそこに、徹子ちゃんがあらわれた。
「おふたりとも、こちらにいらしてたんですか。教室に行くところでしたよ」
「やあ、どうしたの、徹子ちゃん。なにか用?」
徹子ちゃんの用件は、今週の日曜日に、いつものメンバーで集まれないかというものだった。
「お誕生会?」
ふしぎそうに、こころが小首をかしげている。彼女の疑問は当然だろうと思った。徹子ちゃんのいう集まりとは、ゴーの誕生日を祝うためのものだったのである。
小学生、せめて中学生ならいざしらず、この歳でバースデイパーティでもない。誕生会とは名ばかりで、実質は、すこし派手めに遊ぶための口実のひとつという程度の話だった。
「古い付き合いだからね。毎年、おたがいの誕生日近辺の休日にあつまって、ワイワイやるのが習慣になってるのさ。……そうだ、こころも来る?」
僕の提案に、こころは笑顔でうなずくと、あらためて徹子ちゃんに、自分も参加していいかと聞きなおした。
「わたしはかまわないですよ。こころさんなら、大歓迎です」
ほかのメンバーにも、否やはないだろう。とくにゴーは、おととしの幸……いや、僕のほうだったかな。とにかく誕生会のおり、当時つきあっていた自分の恋人をつれてきたことがあるぐらいなのだ。残念ながら、その女とは中等部卒業をまえに、あっさりと別れてしまったようだが。
ひととおりの連絡がすむと、徹子ちゃんは、なんとなくといった感じで、僕の手元にある弁当箱に視線をおとした。そうしてつかのま、もの言いたげに笑みをうかべていた。
しかし結局、彼女は挨拶だけして立ち去ってしまった。どうやら、気を利かせてくれたようである。
のこりの休み時間はこれということもなく、こころとふたりで、のんびり花壇をながめたりしてすごした。満腹だったこともあって、むずかしいことを考える気にはなれなかった。
そよ風につつまれながら、僕はこころの肩を抱き寄せ、軽く頭をなでたりしていた。