第百七十話 九月十日(月)早朝 4
いびつ。その、日常会話で使用するにはあまりにも不穏当な響きの言葉に、僕はつかのま、どう返事をしていいのかわからなくなった。
「すくなくとも、あいつはそう言ってたぜ。キスするぐらい仲がいいんなら、さっさと付き合っちゃえばいいのにってさ。そんなの変だ。おかしいってな」
いくら大羽美鳩にとっては変に思えることでも、僕たちの関係はそれが普通だったのである。そんなこと、いちいち他人に言われる筋合いはない。
胸を張って、そう言い返すべきなのに、僕にはそれができなかった。
なぜなら、こころという恋人がいる現在はともかく、当時の僕は、まちがいなく幸と付き合いたいと願っていたからだ。さらにいえば、キスしてくれるほど仲がいいのならという考えが、自分のなかに全くなかったわけでもない。
そもそもの話、弟にしか見えないからなどという理由での失恋に、表面上はともかく、ほんとうに心底から納得できるはずがないのだ。
ちらりと、幸に視線を送ってみた。彼女は目を伏せていて、その表情はいくぶん堅いものであるようにも思われた。
「――ま、どんなふうに関係を作っていくかなんざ、外野がとやかく言うようなもんでもないわな」
軽く肩をすくめて、ゴーがいった。
「おれは基本的にそんな考えかただから、それを言ってやったのよ。そしたらあいつ、全然ゆずらなくてさ」
ふむ? どうやらいまの不穏な発言は、あくまでも背景事情を説明する一環として、枕に持ち出してきただけのものだったらしい。こちらの反応をまつことはせず、ゴーはさっさと話を進めてしまう気でいるようである。
「恋愛観みたいなもんが、おれとあいつじゃ違っていたってことなんだろうな。はじめはふつうに議論していただけだったのに、話しあっているうちにだんだんとヒートアップしてきて、雰囲気も険悪になっていって。結局、そのままケンカ別れ……」
「関係ないじゃん、それ」
いきなり、幸が自分の言葉を、ゴーのそれにかぶせた。声がいつもより高いように感じられた。
「ようは、その子がかってに変な勘違いして、タケちゃんが宥めそこなってケンカになったってだけじゃん。それのどこがアタシらのせいだっていうん?」
おや、と思った。幸が、ゴーを睨みつけている。相当にめずらしいことだが、彼女はいま、かなり真剣に怒っているようだ。
しかし、ゴーはいつにない幸の剣幕に、多少怪訝そうな様子は見せたものの、とくに怯んだふうでもなく言い返した。
「べつに、幸ちゃんたちのせいだって言ってるわけじゃない。ただ、原因がそれだったってだけだよ」
「だから、どこが」
ふたたび、口をはさもうとしてきた幸を手で制し、ゴーが強めの口調で言った。
「ほら、好きな音楽とか、漫画小説、なんでもいいんだが、趣味のあわない人間と話をしていて、ギクシャクしたり、苛立ったりすることがあるだろ? ああいうのといっしょなんだよ。議題は議題、それそのものに問題があったわけじゃない」
それから、ふっと力をぬいた感じで、自嘲めいた笑みをうかべた。
「つまりさ、幸ちゃんの言うとおりなんだよ。キッカケがたまたまコウたちだったってだけで、実際にあいつを怒らせたのは、おれなんだ。……ああもう、絶対こんな雰囲気になると思ったから、話したくなかったんだけどなあ」
なるほどねえ。そういう事情なら、たしかに当事者相手には説明しにくいだろうな。
まえに、僕がこころを怒らせてしまったときと同じである。あれも、直前にあすかから、周囲の人間を巻きこめとアドバイスされていなかったら、みんなに話そうなどとは思わなかったろう。
これこれのせいでなにかが起きた、と、これこれが原因でなにかが起きた、は、似ているようでも、責任の有無という点で微妙にニュアンスが異なってくる。言葉とは、うまく操らなければ、おうおうにして気持ちと正反対の結果をもたらしてしまうものなのだ。
「でも、ただのキッカケだったっていうのなら、大羽さんはゆうべ、どうしてあんなことをしてきたんだろう。結局は、ほとんど関係ないってことだよね?」
僕が、なかばひとりごとのようにそういうと、こんどは徹子ちゃんが、もう我慢できないという感じで参戦してきた。
「そんなの決まってます! 逆恨みです! あの女は、タケくんとうまくいかなかったのが公平さんたちのせいだと思いこんでるんです!」
「さ、逆恨み?」
あいかわらず、徹子ちゃんの物言いは過激である。だが、ゴーもそこは否定せず、むしろ決まり悪そうに鼻の頭を掻いているだけだった。
しまらない話ではあるが、実際問題としては、そんなふうに解釈するほかないのかもしれない。
要約すると、ゴーは『自分たちが別れたのは、ケンカをしたことそのもののせいだ』と考えていて、大羽美鳩は『自分たちが別れたのは、ケンカの原因である廣井公平のせいだ』と信じ、こちらに敵意をむけてきている、といったところか。いうなれば、そこがふたりの性格の最大の違いであり、あわなかった部分なのだろう。
正直なところ、逆恨みで嫌がらせを受けるなど、はた迷惑きわまりないと思うし、事情があったからといって、相手への評価を上方修正する気もないのだが、そこはそれとして、自分のなかに苦い気持ちがあるのは否定できなかった。
理由がわかった以上、大羽美鳩が成績のことで含みをもっているというのは、完全にまちがっていたことになる。すなわち僕は、相手の敵意の裏にあるものを深く考えようともせず、あいまいな根拠から、こちらに嫉妬しているとかってに思いこんで、ずっと軽くあしらっていたということだ。
そして、その安易な判断に足元をすくわれた結果が、カップルコンテストでの、あのバカバカしい状況だったわけである。
むう、というか、よくよく考えたら嫉妬って、なんだそりゃ。ふつうにイヤなヤツだ、僕。
へたをすると、逆恨みうんぬんもただのキッカケにすぎず、むこうはもはや、こちらを単純に不愉快な人間だと思っていて、それで嫌っているだけなのかもしれないな。
いずれにしても、ゴーから真相を教えてもらわなかったら、こんごも勘違いをしつづけていた可能性が高かったわけで、じつになんとも、背中がむずむずしてくる話である。
「……いまだから言うんだけどさ。おれ、けっこう本気であいつのことが好きだったんだよなあ。いや、べつにホタルに不満があるわけでもないんだが」
今回の件について、僕が自己嫌悪を味わいつつも、自分のいたらなかった点をあれこれと反省していると、突然、ゴーがおかしなことを言いはじめた。
見ると、ゴーは眉間にしわを寄せ、いかにも悔しそうにくちびるを噛みしめていた。
「性格なんかはかなりキツかったんだが、それでも外見とか、モロ好みのタイプでさ。ぶっちゃけ、ホタルを最初にいいなって思ったのも、あいつと顔の雰囲気が似てたからだったし」
「た、たた、タケくんっ? なにを言い出すの」
義兄の意外な告白に、徹子ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。つづいて幸が、こちらに顔を寄せて『タケちゃんのイマカノとモトカノって似てんの?』と聞いてきた。
「似てる……かなあ? 僕はそうでもないと思うけど」
共通点があるとしたら、どちらも地味であっさりした顔だちをしているところぐらいだろう。まあ、日本人の顔を五種類ぐらいに分類したら、おなじ類型に当てはまるぐらいには似ているかもしれないが。
「ちくしょう、なんかもう、菅原のやつに女を取られた気分だ。しってるか? ネットじゃこういうシチュエーションを『寝取られ』を略して『NTR』っていうらしいぜ」
「へえ」
大羽美鳩の新彼氏は、菅原という名前の男子である。昨日までは顔もしらなかった人間だが、見るからに運動部っぽかったから、ゴーのそちら方面での仲間なのだろう。
そのごのゴーは、いつにもまして饒舌だった。おもに大羽美鳩と付き合っていたころのことについて、ちょっと下世話なネタもまじえて語りだしたのである。
おそらく、僕たちに事情を話してすっきりした部分もあったのだろう。変な表現だが、はしゃぐような気持ちになっていたのかもしれない。こいつにとっては、およそ一年も隠してきた秘密を、盛大にぶちまけてしまったのである。
「あのころは、絶対この女でドーテー卒業してやるって決めてたのになあ」
「女子のまえだぞ、おい」
やれやれ、こいつはアホか。徹子ちゃんが、耳どころか首まで真っ赤にして、ゴーの肩から腕のあたりをポカポカとなぐりつけている。幸はといえば、僕と目があったとたんに首をふった。やはり、苦笑しているようだ。
なんのことはない。つまるところ、それはいつもどおりの賑やかな登校風景なのだった。