第百六十七話 九月十日(月)早朝 1
むにゅうと、音がしそうだった。
肥っているほうではないが、頬の肉とはそれなりにやわらかなものであるらしい。鏡を見なくてもわかるほど、僕の口がよこにひろがっている。
これでは妖怪口裂け男だ。なんとなく、そんなくだらないことを考えてしまった。
「ええっと、幸さん? 痛いんですけど」
「そう?」
発音は、とりたてて不明瞭にはならなかった。引っぱられている部分にも、言うほど痛みは感じていない。むしろ、それよりは腰のほうが辛かった。なにしろ、さきほどからずっと、中途半端に体を折り曲げさせられているのである。
もちろん、背の低い幸にあわせて、こちらの顔を、彼女がつねりやすい高さにキープするためだった。
「ごめんなさい。ちゃんと反省してるんで、もうそろそろ許して」
「んー、どうしよっかなー」
ニヤニヤと、幸が意地悪げな笑みをうかべている。見た感じ、本気で怒っているようではなさそうである。どうやら彼女は、この友人同士のありふれた日常のじゃれあいだけで、ことを収めてくれるつもりだと解釈してよさそうだ。僕は内心でほっと息をついた。
通学途中の、道端でのことだった。ただし『途中』といってしまうには、現在地はあまりにも家に近すぎる場所だった。
ありていにいえば、わが廣井家の玄関を出て、角をひとつ曲がったばかりの位置だ。
早朝から、幸はここで待ち構えていたらしく、僕の顔を見るなり頭をさげることを要求してきたのである。そうして『なんでかわかるよなぁ?』などと言いながら、こちらの両頬をつねりはじめたのだった。
「……ま、いっか。そろそろタケちゃんも来てるだろうし」
その言葉を合図に、幸が両手の引っぱる力を強くした。とたんに、洗濯ものから洗濯バサミをむりやり引き抜くように、彼女の指がこちらの顔からはずれた。
きゅうな動きだったので、その瞬間だけはすこし痛かった。
「もうしわけない……」
頬をさすりつつ、僕はふたたび幸に謝罪した。案の定、彼女はそれ以上しつこく追求する気はなかったようで、こちらをうながして歩きはじめた。
さて、こんなふうに、僕と幸が朝っぱらからじゃれあっていた原因は、なにかと問われれば知れたことで、昨夜のカップルコンテストにおける一大告白劇である。
われらが生徒会書記たる、あの忌まわしくも不浄で冒涜的なハトポッポの理不尽な糾弾と、それにたいする正々堂々の釈明、といえば聞こえはいいが、実際は多人数のまえで吊るし上げられた挙句、プライバシーをぶちまけさせられたというだけの話だ。
それでも、僕はまだましである。恥をかかされたといっても、なんだかんだで恋人とはじめてのキスができたし、一晩あけてみると、その部分だけで『いい思い出』化してしまったような気がしないでもないのだから。
問題は、イニシャルトークとはいえ、巻きこんでしまった幸のほうである。
たしかに幸は、僕をからかうときや、そうでなくとも場をなごます笑いのネタとして、あの手のむかし話を面白おかしく語ることがある。しかし、それはあくまでも仲間うちだからこそ許されることなのだ。
コンテストでは、切羽詰っていたためについやってしまったが、かってに不特定多数のまえで暴露するなど、へたをすれば絶交を宣告されてもおかしくないほどの愚行である。
正直なところ、頬をつねられただけで勘弁してもらえたのは、望外の結果といえた。
ちなみに、後夜祭であるが、幸自身は、翌日に疲れをのこさないよう参加はせず、早々に帰宅していたらしい。彼女がコンテストの顛末をしっていたのは、イベント終了ごに関係者数名――ゴーや徹子ちゃん、さらに委員長もふくまれるようだ――から、電話やメールなどで連絡をもらったからだそうである。
やはり、委員長もあの場にいたのか。説明をきいて、僕は思わず苦笑してしまっていた。
さいわい、議論の焦点が、僕と幸の関係に終始していたので、委員長のほうは『Aさん』という形で数回ほど登場したのにとどまっていた。もし、大羽美鳩がそちらのほうも同時に攻めてきていたら、さすがに収拾がつかなくなっていたにちがいない。
したくはないが、とりあえず大羽美鳩の詰めの甘さに感謝する僕だった。