第百六十六話 九月九日(日)夜 帰路
頭上に、満天の星がまたたいている。
午後十時ちかい時間ということで、あたりはすっかり夜の気配で満ちみちていた。風はすずしく、昼間の暑さはどこへやらといった感じである。
後夜祭も終了し、帰路、僕はこころをマンションまで送っているところだった。
さきほどから、とくに会話らしい会話はしていない。やはり、疲れているのである。こころは眠そうな顔でうつむいていたし、たぶん、むこうから見たこちらの様子も似たようなものだろうと思った。
とはいえ、せっかく恋人といっしょに歩いているのに、これでは少々さびしい気もする。僕はふんといって伸びをしたことをきっかけに、相手に話しかけてみることにした。
「コンテスト、残念だったね」
すると、こころは顔をあげ、いつものふにゃりとした笑みをうかべた。
「しかたないよ。グランプリのペアがすごすぎたんだもの」
結局、僕たちのカップルコンテストは、三位という地味な順位におわってしまった。途中であんなことになったと考えれば、それでもよく巻きかえしたほうだとは思うが、くやしいのは否めない。
ただ、グランプリをとった四組めのカップルは、審査員得点、投票とも断トツの一位だったので、たとえなにも問題がなかったとしても、勝てなかった可能性は高かった。
ルール上、一位とそれ以外の得点に、あるていどの差がつくのはしかたないにせよ、投票数自体、二位以下はゲストのはずの六組めを含めても、どんぐりの背比べだったほどなのである。僕としてはいまだに、彼らのどこがどうすごかったのか理解できていないのが難点だった。
「でも、書記さん、うれしそうだったよね」
「まあね。こっちがあれだけ気を遣ってあげたんだから、うれしくなってもらわなかったら困るよ」
愚痴っぽく、そう返事をすると、こころはすっと手を伸ばし、よくがんばりましたといって頭をなでてくれた。
さて、ここでひとまず、サプライズコーナーの真相について語っておくとしよう。
もともと、あれは本来、イチゴさんが自分の恋人といっしょに乱入し、カップルとしてお披露目をするという感じのイベントというかコーナーだったらしい。すくなくとも、大羽美鳩が直前まで把握していたのは、そういう内容のものだったはずである。
それが、文化祭のすこしまえ、夏休みの補習期間中だかに、イチゴさんが例の菅原くんから、大羽美鳩を好きになってしまったと相談を受け、さらに鏡寺さんをはじめとするほかの生徒会メンバーがそこに乗ったことで、急遽、告白イベントに変更されてしまったのだ。このあたりは、本人もスピーチで述べていたとおりである。
なにぶん、正真正銘のサプライズ告白であるため、うまくいくか危ぶまれていたところはあった。しかし、あのふたりは仲がいいと以前から周囲に認識されていたこともあり、また、これもスピーチで軽く触れられていたことであるが、どうやらイチゴさんのほうも大羽美鳩に『菅原くんが告白してくるなら、受けるのもやぶさかではない』と聞いていたことがあったようで、まず問題はないだろうと考えられていた。
ところが、いざ本番になったら、いきなりあたらしい不安材料が出てきてしまったのである。それが、僕だった。
つまり、大羽美鳩があまりにもこちらを意識した行動をとっているため、過去になにか、男女関係のもつれのようなものがあったのではと懸念されてしまったわけだ。
首尾よくカップルが成立したとしても、確執などを理由に、僕がよこから茶々を入れてきた場合、せっかくのイベントが台無しになってしまう。そんな疑いをかけられるなど心外きわまりないが、関係者の立場で考えればいたしかたない話だ。
ともあれ、そこは三組めのときの秘密の話しあいで、明確に否定することができたわけだが、鏡寺さんはそれだけでは満足しなかった。さらなる万全を期するため、こちらを仲間――いうなれば、共犯者に引きこむことを決断したのである。
すなわち、もともとは鏡寺さんが自分でやるはずだった観客のまえでブーケを手渡す役を、僕に託すことにしたのだ。
敵をつぶすための方法。そういう言いかたで、彼女は僕に協力をもとめてきた。
字面だけ見るなら、ひどく殺伐とした感じのする言葉である。しかし、実際はそうたいしたものでもなかった。というのも、鏡寺さんのいう敵をつぶす方法とは、たんに対象を懐柔することだったのである。
友好的でない相手が存在する場合、まずは恩を売り、しかるのち、それを周囲にわかりやすくアピールすればいい。そうすることによって、対象を味方につけられればよし。そこまで行かなくても、相手は敵対行動を取りにくくなる。恩を仇で返すようなものは、人間として信用されなくなってしまうからだ。
もちろん、なかには他人の善意が通じないものもいることだろう。しかし、そういう手合いは吹けば飛ぶような雑魚、あるいはつまらない小物なので、気にすることはない。どうせ周囲からも嫌われているだろうから、正々堂々と叩きのめせばいい。
とくに、後半部分が豪快な理論ではあるものの、一理あると思った。みんなのまえでブーケをわたし、祝福の言葉まで口にした相手に嫌がらせをしかけるなど、まともな神経をしていたらできるはずがない。
だから、僕も鏡寺さんの提案に乗ることにしたのである。
そのご、一時は言いがかりでひどい目にもあわされたが、約束をたがえるつもりはなかった。
大物をきどって大羽美鳩の所業をゆるしたわけでも、鏡寺さんの本心――おそらく、彼女は僕たちの険悪な雰囲気を見かねて、関係改善をさせたかったのだろうと思う――にほだされたわけでもなかった。こちらなりの、計算があってのことである。
大羽美鳩が、生徒会役員たち、とりわけ鏡寺さんやらイチゴさんやらと仲がいい友人同士であるのは、校内ではわりと知られたことである。その事実があったからこそ、最後の寸劇で言い争いを演じても、観客は安心して見物していることができた。ようするに、ただの演技で、ほんとうにケンカをしているわけではないからだ。
そして同様に、こちらが笑顔でブーケをわたすという行動に出れば、僕と大羽美鳩の関係をしらない多数の観客には、さきの言いがかりを、ただの内輪のじゃれあいと勘違いさせることができる。コンテストを盛り上げるためのネタだったように見せかけることが可能になる。
もっとも、そこまでうまくいくかまでは、さすがに自分でも疑問だった。しょせん、なにもしないよりはマシというレベルの話でしかない。ただ、すくなくとも、こちらの行動は善意に見えるはずなので、イメージがよくなることはあっても悪くなることはないとは思った。
いちおうの結果として、僕とこころは大羽美鳩から礼をいわれた。ヤツだって、選挙でえらばれた学園生の代表のひとりであるわけだし、こんごは空気を読むだろう。それでもなにかしてくるようなら、今回のことで鏡寺さんにはひとつ貸しがつくれたから、そちらを動かすなりして対処してもいい。
コンテストについても、あの内容で三位をとれたのであれば、不満をならべたてるのは贅沢というものだ。
「……あした」
ふいに、こころが言った。
「いよいよ、あしただよ、こーへいしゃん」
「ああ……」
あすは、早朝から文化祭の片付け作業がある。しかし、彼女が言いたいのは、そちらではなく放課後のほうだということが、僕にはすぐにわかった。
毎週月曜の夕方、黄昏どきに、どこからともなくあらわれる幽霊少女、あすか。
僕はあすかに、こころを恋人として、こんどこそきちんと紹介するつもりなのである。
「くどいようだけどさ。まえも言ったとおり、あすかはこころのことをものすごく嫌っているんだ。そのあたりは」
「へいきだよ。こーへいしゃんだって、書記さんと仲直りできたじゃない。こころだって」
いって、こころは屈託なさそうな笑みを僕にむけてきた。
仲直りといってしまうには、相手の敵意が一方的すぎることもあり、微妙に的をはずしている気がしないでもない。だが、この場でそれを指摘する意味もなかった。おおらかに捉えていたほうが、いいことだってあるのだ。
「じゃあ、このへんで……」
気がつくと、こころのマンションのまえまで来ていた。
送るのは、ここまでである。もう時間がおそいので、家にあげてもらったりはしない。あとは帰るだけだ。
なのに、彼女は振り向くでもなく、もの言いたげな瞳をしたまま、こちらを見つめているだけだった。
「こころ」
つぶやくように、僕は恋人の名前をよんだ。片手を彼女の肩にそえ、もう片方の手で相手の頬のあたりの髪を流した。
ごくあたりまえのことのように、こころは目をとじて、顎をあげてくれた。そのまま、僕は彼女を抱き寄せた。
目をつむり、ゆっくりと顔を近づけていく。
ふと、またしてもだれかの邪魔がはいるのではと不安になった。
たとえば、桐子さんあたりが、突如として玄関に降りてくるかもしれない。まだ見ぬこころの父親が、満をじしての初登場ということもありえる。
「ん……ちゅ……うふふ」
だが、そんな心配はただの杞憂でしかなく、僕はぶじ、恋人と二度めのキスをかわすことができたのだった。
<第八章後編・了>