第十七話 四月九日(月)午後 2
教室にもどると、僕はあらためて自分の机を確認しなおした。
窓際二列めの、前寄りの位置である。置いておいた荷物も、とくに問題はなかった。とりあえず、そのまま席について、ひと息つくことにした。
休み時間である。新学期最初のホームルームまで、いくばくかの暇がある。あたらしいクラスメイトたちは、それを利用して、場所の近いもの同士、あるいはもとからの友人同士で、軽い会話に花をさかせているようだった。
僕は、鞄から本を取りだした。
べつに、いま読もうというわけではなかった。この本は、春休みのまえに安倍さんから借りていたものである。ちょうどいいので、これから彼女に返しにいこうと思ったのだ。
まだ、座席のならびは名簿順なので、女子あ行の最初である安倍さんの席は、廊下側二列めの先頭だった。
立ちあがって、そちらに目をやると、彼女は自分の椅子に腰をおろし、幸――うしろのほうの席から出張してきたらしい――と楽しげに談笑しあっているところだった。どうやら、さっそく仲よくなってくれたらしい。紹介したこちらとしても、うれしいかぎりである。
――と、安倍さんと目があった。僕は片手をあげ、そのまま足早に、彼女の席まで歩いていった。
「やあ。さっきは返すのを忘れていたけど、これ。どうもありがとう、安倍さん」
お礼をいって、彼女に本を手渡した。
「あら、もう読みおわったんですか? わりと長いお話だし、もっとゆっくりでもよかったのに」
「すごくおもしろかったからね。それに、けっこう熟読したと思うよ」
頭から通しで二回、そのほかにも、折にふれては気にいった部分を読みなおしたと説明すると、安倍さんはにこりとほほえんでくれた。貸した甲斐があったとでも思ったのだろう。
「この小説って、あれっしょ? ゆうべ、読んでて徹夜したってやつ。けさの公平、すっごい眠たそうだったんだわ」
よこから、幸が話にくわわってきた。徹夜というと語弊はあるが、たしかに昨夜、眠れないままに、ベッドに入るまで読んでいた本がこれだった。
「ふうん……。夜更かしはよくないですね。ちゃんと眠らないと、読んでもお話が頭にはいらないですよ」
薄めの眉をほんのすこしだけひそめ、安倍さんはおだやかな口調で、僕をたしなめてきた。
たしかに、寝ぼけた頭で読みこなせるような、簡単な小説ではなかった。どちらかといえば、難解な部類にはいるものである。
その小説は、タイトルを『ダブル・スタンダード』といって、主人公が物語の世界にはいりこんでしまうという内容だった。
本来、現実世界の住人であるはずの主人公は、物語の世界では神に匹敵する能力をもつ。
すなわち、物語を解釈し、それに『注釈』や『定義』をくわえることで、内容を自分有利に限定できてしまうのである。
現実世界でたとえるなら、時間と空間を操り、過去や未来を変えてしまう能力をもつといったところか。
もちろん、万能というわけではなく、まったく根拠のない内容には改変できないし、解釈にむりがありすぎて矛盾が生じると、無効化されたりもする。
だが、主人公は高い知能と幅ひろい知識、ねじくれた感性を駆使して、物語の世界を拡大解釈し、自分の都合のいいものに作りかえていった。
ところが、後半、どこからともなく同様の能力をもつ謎の存在があらわれたのである。そいつは、主人公の作りかえた物語の世界をひそかに破壊し、かってに再構成しはじめた。
ことに気づいた主人公と、この謎の敵との戦いは、じつに熾烈なものになった。
知力をふりしぼるという感じで、セリフや描写の一字一句に、ふたつ以上の意味がこめられていることもしばしばあり、読みながらかなり頭をつかわされたものだ。
終盤の、相手の正体が明かされ、主人公の危機から意外な決断による逆転劇へとつづく怒涛の展開や、これでおわりと言いきれないような不気味さのただよう結末など、オチを知っていてもなお楽しめる小説だった。貸してもらって、よかったと思っている。
「へえ、そんなにおもしろいんなら、アタシも読んでみたいな。ねえ、耀子ちゃん、つぎ貸してくれない? お返しはするから」
いかにも気やすい態度で、幸がいった。安倍さんも、愛想よく笑って答えた。
「かまわないですよ。べつに、お返しなんかなくても」
おっと、これは説明しておいたほうがいいかな。
「安倍さん、幸はひとからなにかしてもらったら、お返しをしないと気がすまないたちなんだ。だから、気にせずになんでもいったほうがいいよ」
「そうなの? でも、いまはとくに……。それじゃ、なにか思いついたときにでも、お願いしますね」
どうぞといって、安倍さんが、幸に本を差しだした。
「ありがとう」
幸が本を受けとったのと、休み時間の終了をつげるチャイムが鳴りひびいたのは、ほとんど同時だった。