第百六十二話 アピールタイム 3
「みなさん、こころは彼を信じています」
僕から離れると、彼女はすぐに、観客にむきなおった。
「だからどうか、みなさんも彼のいうことを信じてください、お願いします!」
いって、こころはぺこりとお辞儀をした。
たぶん、そのときの僕は、はたから見て『目を白黒させている』というような状態だったのだろうと思う。どのぐらい呆けていたのかはわからないが、気がつくと、会場の雰囲気はすっかり変わってしまっていた。
観客が、こころに拍手をおくりはじめたのである。
それでようやくわれにかえり、僕もあわてて頭をさげると、拍手はよりいっそうおおきくなった。『にくいぞ、この』とか『もう一回しちゃえ』といったような声も飛んできた。
しかし、僕にとっては、もはやそれどころの話ではなかった。
なにしろ、恋人とはじめてのキスをしたのである。しかも、こんな衆人環視のなかで、相手のほうからされてしまったのだ。
ひどく落ち着かない気分だった。体が宙にういているような感じがして、動悸がおさまらない。頭をあげて、深呼吸をしても、それはかわらなかった。
「もどろ、こーへいしゃん」
「あ、ああ……」
どうやら、そろそろアピールタイムは終わりらしい。すでに司会のふたりがまえに出てきている。
うながされるまま、カーテンのそで、僕たちの定位置に引っこむと、すぐにモリハトコンビがまとめのトークをやりはじめた。しかし、正直なところ、壇上の声は、まったく耳にはいってこなかった。
ひとまず、ふたりしてその場に腰をおろした。僕が足を投げ出して楽な姿勢をとると、こころはあたりまえのように、こちらにしなだれかかってきた。
「……ねえ、こころ」
「なあに?」
こころが、顔をあげて僕を見つめてきた。その瞳がうるんでいた。頬も、熟したトマトのように赤い。
思わず、どうしようもない気持ちになり、僕は彼女の頭のうえに手をおいて、ゆっくりと撫でまわした。こころは、くすぐったそうに目をほそめていた。
「なんていうか……。しちゃったね、キス」
「うふふ」
軽く笑って、こころが僕の胸のあたりに顔をおしつけてきた。こすりつけるようにして、頬ずりをされた。
「こーへいしゃんはね、こころの恋人なの」
つぶやくようにそういってから、こころはふたたび顔をあげ、僕を見つめなおした。
吸いこまれるような瞳だった。
「ほかの女の子には、もう絶対、キスなんかさせないよ。こーへいしゃんは、こころだけのものなんだから」
「もちろんさ。僕だって、ほかのだれとも、もうキスをする気はない。好きだ、こころ。……愛してる」
こちらの返事と告白に、こころはふにゃりとした笑みを浮かべた。それから目をとじて、ほんのすこしだけ顎をあげた。
そのままくちびるをつきだして、なにかをねだるように、かすかに動かした。
赤く瑞々しいくちびる。ふいに、さきほどの感触がよみがえってくる。もういちど、あれを味わってみたい。
こんどこそ、エチケットどおりにするよ。胸のなかでそうつぶやいて、僕は目をつむった。
すこしづつ、互いの顔が近づいていく――。
「おい、おいったら。そこのバカップル」
と思ったら、いきなりだれかが声をかけてきた。
せっかくいいところだったのに、野暮なことをするなあ。憮然としつつ、僕は声のしたほうに顔をむけた。こころは、飛びあがるようにして体を離したあと、こちらの背中に隠れてしまった。さきほどとは事情がちがうため、さすがに恥ずかしかったのだろう。
「えっと? 出番は終わったはずですが、まだなにか?」
声の主は、鏡寺さんだった。いつのまに来ていたのか、両手を腰にあて、カーテンの入り口のところに突っ立っている。
見ると、相棒の大羽美鳩は、ステージの中央付近にいるようだが、そちらはなぜか、こめかみのあたりを指で押さえていた。よくわからないが、頭をかかえているといったふうでもある。
というか、ふたりとも、イベントの進行を中断してなにをやっているんだ?
会場からは、笑い声が聞こえてきていた。ネタやトークが受けているといった感じではない。失笑がもれていると言うべきか、とにかくみょうな雰囲気なのである。
はて、いったいどうしたのだろう?
状況がつかめず、小首をかしげていると、鏡寺さんは両手をひろげて頭をふった。そうして、その衝撃的な真相を、冷酷にも宣告してきたのだった。
「君たち……。ピンマイクのスイッチがはいったままだぞ」