第百五十八話 カップル五組め 3
まず、つとめて怒らないようにしようと思った。
単純に、議論――この場合、舌戦ということになるのだろうが、そういったものでは、感情的になったほうが負けという面がある。だが、それ以外にも、怒ってはならない理由があった。
いまのところ、観客たちは、これから僕たちがおこなう会話を、あくまでも司会による『いじり』として認識しているはずである。
生徒会役員の大羽美鳩はともかく、こちらは学園内の有名人というわけではないので、なにかしら共通の関係でもなければ、僕たちのあいだに含みがあるなどとは知りようがないからだ。
となれば、面白おかしい雰囲気をきっちりと維持しつつ、それでいて大羽美鳩を徹底的に論破してやれば、このくだらない『ゴシップ』を客を楽しませる『ネタ』に昇華させることが可能になる。
よし、それではやるか。僕は手はじめに、笑顔でおおげさに肩をすくめてみせることにした。
「なんのこと? 僕はこころ一筋だよ」
もとより、大羽美鳩のほうも、ここでさらりと流すつもりはないようだった。当然のことである。そうするぐらいなら、最初からこんな、言いがかりをつけてくるようなマネはしてこないだろう。
「あらぁ、おとぼけになられる? では、いくつか質問させていただきますが、かまいません?」
「どうぞ」
こちらへの攻撃材料については、おおかたの予想がついていた。
「じゃあ、とりあえず……。あなた、昨年はおなじクラスの、イニシャルですがAさんとお付き合いされてましたよね?」
「いいや? これまでの人生で、恋人になってもらったのは、彼女だけだよ」
いったん大羽美鳩から視線をはずし、僕はこころの顔を見つめた。表情が硬い。だが、思ったよりは落ち着いている様子だった。
できれば、なにも言わずに見守っていてほしい。そういう気持ちをこめて、目配せをしてみたが、伝わったかはわからなかった。
「クラスでは、もっぱらそういう噂が流れてましたわよ?」
「そのAさんがだれかはわかるし、そういう噂があったのも知っているけど、事実じゃない。男女がふたり、それなりに仲よく会話なんかをしていれば、周囲が囃し立てたくなる。その程度のことさ」
ふたたび大羽美鳩に向き直り、僕は胸をはって答えた。
Aさんとは委員長、すなわち安倍さんのイニシャルで、まちがいないだろう。当時、自分のなかに、そういう気持ちがまったくなかったとは言えないものの、実際問題として、僕と彼女は恋愛関係にはなっていないのである。したがって、二股などと責められるいわれもない。
それにしても、大羽美鳩はしらないだろうが、委員長はついさきほど、あたらしい恋人ができたばかりなのだ。しかも、へたをすると、たったいまふたりで、このやりとりを見ている可能性すらある。
こんな形で話題にだされて、いい気分がするはずもないわけで、はた迷惑としか言いようがなかった。
「へえ、そうですか。ならAさんのことは置いておきましょう。つぎは、これもイニシャルですが、Uさんについて」
そこで言葉をくぎり、大羽美鳩はじっと僕を見つめてきた。Uさんとは、幸の苗字、宇佐美のイニシャルだろう。ほかのクラスの人間のことなのに、よく調べたものだとは思うが、残念、これも予想どおりである。
そもそも、どっちと付き合うんだといったたぐいのことは、委員長の新恋人の黒田にすら、かつては聞かれたことがあったぐらいなのだ。いまの二年二組では、僕がこころと交際をはじめる以前の時期に、それで賭けまで成立していたそうだし、材料をもってくるなら、ほかにはありえないのである。
「Uさんってのもだれかわかるけど、そっちも違うよ。付き合ってない。幼なじみの友だちってだけ」
すると、なぜか大羽美鳩が口角を吊りあげた。ニヤリという感じで、ほくそ笑んでいると表現するのがしっくりとくるような、みょうな表情だった。
はて? いったい、なにがおかしいのだろう。相手の考えが読めず、僕は軽い苛立ちを覚えた。
「はい、ダウト」
「……なに、それ?」
会場は、異様なまでに静まりかえっていた。ただし、その熱気は、汗がにじみでてくるほどだった。
くしくも、四組めの、あの意味不明な盛りあがりがはじまる直前の静けさにも似ている気がした。
「ただの幼なじみと、キスなんてするんですか?」
あっ、と思った。
大羽美鳩が、どこでそのことを知ったのかはわからないが、これはまずい。
たしかに、幸は家族に準ずる人間として、すくなくとも今年の四月ごろまでは、僕にキスをしてくることがあった。
だが、これは――彼女のキスが親愛をあらわすものであり、恋愛感情に基づくものではないというのは――おなじ幼なじみで親友でもあるゴーですら、信じがたい、ありえないと言い出すようなことなのだ。大羽美鳩にそう反論したとして、認めさせることができるだろうか?
こちらが返答につまったと見てとるや、大羽美鳩はさらに畳みかけてきた。
「あなたとそのUさんが、キスをする関係だってことは、ちゃんと調べがついているんですよ? そういう証言がありますし、なにより目撃者がいますから。つまり、ただの幼なじみっていうのは、ウソということですよね」
つづいて、観客のほうに向き直ると、大声で煽りをいれた。
「さぁて、そこで気になっちゃうのがぁ、なぁんでウソをつく必要があるのかなぁってことなんですけどぉ」
勝ち誇ったような口調だった。ほんのりと、嘲笑の成分を混入しているのが感じられ、それがことさらに不快だった。
「こうなっちゃうと、さっきのAさんのことも、ほんとうなのかなあって思っちゃいますよね。どうなんでしょうか? ねえ、廣井、こ・う・へ・い・クン?」
かすかに、客席からささやきが聞こえてきた。
最初、ほんのひと色ふた色でしかなかったそれらが、しかしまたたくまに、波紋のように会場中にひろまっていく。
あきらかに、僕にたいする不信感をあらわした内容のものだった。
どうする? どう答える?
思わず、パニックにおちいりかけた。心臓の鼓動が速くなり、背中をつめたい汗がつたった。
だめだ、落ちつけ。冷静になれ。そう自分に言い聞かせたようとしたが、思考はまとまらなかった。
ところが、そのときだった。
いきなり、こころが一歩まえに歩み出たのである。そして、僕がなにかいうまえに、大羽美鳩に対峙した。
「こーへいしゃんは、ウソなんかついてないよ!」
舌ったらずさは、抜けていない。それでも、口調だけは凛とした声が、会場に響き渡った。